◎背番号という選手の代名詞(菅谷 齊=共同通信)
オリックスの宮城大弥が今シーズンから背番号「18」を付けた。入団した2020年から昨年までの「13」を変えた。一方、200勝まであと3勝の田中将大は巨人に移り、昨年まで在籍した楽天での「18」から「11」に。
「18」は昔からエースナンバーといわれている。そのきっかけは歌舞伎十八番からの転用という説が有力である。けれども今は球団によって異なる。「11」は巨人にとって300勝投手の別所毅彦や平成の大エースと呼ばれた斎藤雅樹が付けた大名跡といっていい。
「3」の長嶋茂雄と「1」の王貞治、「10」の張本勲に代表されるように、背番号は選手の代名詞で、選手の栄光を永久に讃えるのが永久欠番である。
各チームは背番号を決める、与えることによって、新人には誠意を示し、既存選手には期待を表すのに利用する。それで選手はさらに希望をと夢を持ち、新たな闘志を見せる。他のスポーツでもよくある出来事である。
中には「オレが背番号を一流にしてやる」と球団の提案を蹴った選手も、全く少数だがいる。有名なのは400勝投手の金田正一。1951年に国鉄入りした時の「34」を最後まで離さず球界の頂点に立った。その番号は他球団のホープの左腕が付けるようになった。
革命といっていいのが50番台だった。巨人の駒田徳広「50」、牧原寛己「54」、吉村禎章「55」は50番トリオとして注目された。駒田は満塁男と呼ばれ2000安打を記録、槙原は完全試合を達成したことで一流番号になった。
巨人の「55」は松井秀喜が引き継ぎ、ヤンキースでも4番を打ったことで超一流番号に。その前に「51」のイチローがフィーバーし、日米で大記録を作った。いまや50番台は“出世番号”といっていいだろう。一時期、みんな「一ケタ番号が欲しい」としていただけに、隔世の感がある。
プロ入りした時の番号を同一チームで最後までつけて成功した主な投手を挙げてみる。300勝では「1」の近鉄・鈴木啓示、200勝は「11」の阪神・村山実、「20」の広島・北別府学、「24」の西鉄・稲尾和久、「29」のロッテ村田兆治、「33」の阪急・梶本隆夫、「34」の中日・山本昌らがいる。
長嶋が巨人に入った時、打撃の神様こと川上哲治は「15」を推奨したという。その理由は
「14」の沢村栄治、自分の「16」と並べ、将来の“殿堂入りトリオ”になる、と。背番号はただの数字ではないことが分かる。
日本人大リーガーも背番号にはこだわりがある。大谷翔平はエンゼルス時代の「17」をドジャースでもつけている。移籍した時に付けていたリリーフ投手が譲ってくれた、ということである。そのお礼に高級車を送った、とのエピソードが報じられた。「18」の山本由伸と同僚となった佐々木朗希は「11」である、
「背番号を背負う」と表現されるが、それは「期待を背負う」という意味に通じる。成績が悪ければ外されるのだから、数字は侮れない。(了)