「100年の道のり」(87)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎大荒れの末のセ・パ2リーグ制度
B29戦闘機の空爆に原爆。あちこちが焼野原になった戦後の日本だった。そんな状況にあってプロ野球をこれからのビジネスとして多くの企業が球界参画に名乗りを挙げた。正力松太郎の1リーグ10球団の構想はどこかへ吹き飛んでしまった。
1949年オフ、球界は荒れに荒れた。参画チームをどう扱うかで、この年までリーグ戦を戦った8球団の意思が割れた。「8球団維持」を主張したのが巨人、中日、大陽の3球団。これに対し「新興歓迎」は阪神、阪急、南海、大映、東急の5球団。連盟決裂の危機に直面した。
加入希望は毎日、西日本、近鉄など続々と態度を表明していた。この混乱状態をどう収拾するか。連盟は会議を開いた。すると阪神が反対側に回り、4対4となり、収拾どころか最悪の“連盟解散”に。先が見えなくなったのである。
阪神が態度を翻したのは、最大人気チームの巨人との試合を失うことを恐れたから、と言われている。「伝統の一戦」は収入源の元だった。
この状況で窮地に立ったのが毎日である。8球団維持となれば参入できなくなる。そこで手を打ったのが新リーグ「太平洋野球連盟」(のちのパシフィック・リーグ)の創設だった。歓迎組の4球団にさらに西鉄と近鉄が加わって7球団で発足した。
これに対し、巨人を中心として阪神、中日、大陽(太陽から改称)改め松竹に新たに大洋、国鉄、広島、西日本が入り、8球団で「セントラル・リーグ」を名乗った。
両リーグで計15球団という奇数に、ドタバタ劇の結果が表れていた。偶数のセに比べ奇数のパは試合日程を組むのに一苦労することになった。2リーグ初年度の50年はリーグで1チームの試合数が違った。セは136試合から最大140試合を消化。パはすべて120試合でそろったが、個人記録に影響していくことになった。
優勝はセが松竹(98勝35敗4分け、勝率7割3分7厘)。パは毎日(81勝34敗5分け、勝率7割4厘)。松竹は打率2割8分7厘、179本塁打、毎日のそれは2割8分6厘、124本と、いずれもリーグ1位だった。
セの最下位は広島で41勝しか挙げられず勝率は3割を切った。パは近鉄が44勝で、両リーグとも新興チームがテールエンドで終わった。一応、リーグ戦の形は整えたが、それまでの裏面史はすさまじい出来事だらけだった。(続)