「ONの尽瘁(じんすい)」(22)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

1986(昭和61)年10月12日深夜。日付が変わろうとしていた。
巨人監督・王貞治の運転する車は、静かに東京都内の自宅に戻ってきた。閑静な住宅街には新聞、テレビの報道陣30人近くが待ち構え、その主(あるじ)の登場に合わせてテレビカメラのライトや写真のフラッシュが一斉にたかれ、周辺は昼間のような明るさと化した。
王は駐車場に車を入れるとおもむろに玄関前に出向き、報道陣と相対した。問い掛けを待つ間も視線を落としたままだったのは、あながちまぶしすぎる照明のせいだけではなかったろう。
巨人は既にその3日前に全日程を終え、王の初優勝の成否は、この夜の広島(対ヤクルト)の勝敗如何にかかっていた。広島が勝てば、自力で2年ぶりの優勝。逆に負ければ、王巨人に優勝が転がり込むという「のるかそるか」の大一番となっていた。
自宅で待つのが、もどかしかったのかもしれない。王は知人と会食に出かけ、帰宅したのは勝敗が決した2時間も後だった。試合は8-3で広島が快勝。監督・阿南準郎が宙に舞った。報道陣は王の反応をとるべく、自宅に詰めていたのだった。
記者が「終わりましたね」と切り出すと、王は、ようやく、声を絞り出した。
「そう…ですね。土壇場に来て、強かったですね、広島は…。うちも、それを上回ったとはいわないけど、まあ、いい試合をやりましたよ」
敵への祝辞より、自軍の健闘を、まずたたえた。淡々と、それでいて感情を押し殺したからだろう、声風(こわぶり)にはいつになくトゲのような粗さも感じられた。
「負けたことは残念だけど、最後まで締まったペナントになったからね。まっ、この悔しさは来年ぶつけようと思ってます」
心の奥は、誰にものぞかせなかった。表向きに次のシーズンへの思いを口にしながら、3年連続のV逸、しかも130試合制で安全圏とされた「75勝」をマークして、なお届かなかった自身の初優勝に、王は自責と自戒の念を込めた。その心情は、王を「進退伺」の提出に向かわせるー。
86年シーズンは、ゲーム差なしのわずか「3厘差」で幕を閉じた。優勝した広島は73勝46敗11分け、勝率.613。一方、巨人は75勝48敗7分け、勝率.610だった。
シーズン終盤、勝ち数が多い巨人と、勝率で上回る広島とでは、残り試合数が多く、かつ負け数が少ない広島に分があるー。それが評論家諸氏の一致した見方だった。
王も、この負け数の差をかなり警戒していた。
「やはり(負け数差が)3つとなると苦しい。せいぜい2つまで。それなら3連戦でひっくり返せる。絶対2つ以上は離されないことだ」
9月下旬から10月上旬にかけての最終盤、戦力バランスを整えた王が破竹の8連勝を飾れば、阿南も10月上旬に怒とうの8連勝を遂げた。デッドヒートは白熱の度を増し、負け数差は一向に縮まらなかった。
そんな折、王が監督就任後、優勝に最も近づいた時期がある。8月26日から後楽園で行われた巨人VS広島の直接対決3連戦。戦前、首位巨人と2位広島の差は3.5だった。初戦は江川卓と北別府学のエース対決も、伏兵・山倉和博が1試合3発の離れ業をやってのけ、巨人が先勝。2戦目も槙原寬己の好投で連勝し、広島との差を最大の5.5まで広げた。
しかも、広島には「取り扱い注意」のハンデが足かせとなって存在していた。超ベテラン山本浩二と衣笠祥雄の「衰え」だ。
猛暑とシーズンを通しての疲労に体が悲鳴をあげ、ともに打力は著しく落ち込んだ。それでいて衣笠は連続試合出場の世界新記録樹立に向かって突き進んでおり、休養は「禁句」とされた。もう1人の山本浩にはシーズン限りの「現役引退」問題が降ってかかり、スタメンを外れることが頻出した。チームの勝敗より試合に出ない「ミスター赤ヘル」の動向に取材の目が向けられる始末で、せっかくの逆転優勝ムードは希釈(きしゃく)され、緩み、縮んだ。
巨人には強烈な〝フォロー〟となるはずだったが、一瞬のうちに、風は吹き止んだ。そして、いよいよ「ゴール」を視野に入れようかという矢先、今度は、王に暴風級の〝アゲンスト〟が吹き荒れることとなる。(続)