「記録の交差点」(23)-(山田 收=報知)

第23回 宮西尚生⑤
 2025年シーズンが始まり、1か月が経過した。今シリーズの主人公・宮西も開幕ロースターに入り、19年目に突入だ。4月2日のソフトバンク戦に3番手で登板、今季初ホールドをマーク。また記録達成への長い旅が始まった。ここまで7試合に登板(通算876試合)、2ホールド(通算414H)。自身の持つ最多ホールド記録を塗り替えていく日々だ。
 今回は宮西自身が高い目標として胸に刻んでいる登板数についての話題を追ってみようと思う。前回も取り上げた史上最高のリリーフ投手・岩瀬仁紀がもつ連続救援登板(879)を超えるのは目前だが、宮西はその先にある1002試合登板という頂点を目指している。
 岩瀬で特筆すべきことは、リリーバーという過酷な仕事を19年間勤めてきたことだろう(2015年は1軍登板なし)。まさにコツコツと積み上げる作業だったと思う。彼のライフタイム成績を眺めてみると、ルーキーだった1999年から15年連続で50試合以上登板している。無論、これはNPB記録である。さらに、17年(50登板)も加えて、通算16度もまた、プロ野球記録である(2位は宮西の14度)。
 タフにこれだけ投げ続けられた要因はいくつもあっただろうが、岩瀬自身は「投げ方と体のケアにあったのではないか」と語っている。「多くの投手の故障箇所となる肩・肘に負担のかかる投げ方ではなかった」のが長持ちの秘訣という。テークバック時、後ろでトップの位置を決め、そこから投げ下ろす感じ、というのだ。肘から出すのではない。「肘が先に出るのではなく、後ろで投げるイメージ」と岩瀬は言う。
 その分、体の軸を起点に使うので、肩・肘より体の中心に近い首・背中・腰に負担がかかる。シーズン中、背中がつって登板を回避したこともあったという。体のケアの面では、オフに通っていた鳥取の「ワールドウイング」で得た初動負荷理論に沿ったトレーニングを続けた。このジムは50歳まで現役を続けた山本昌や、イチローなど多くのアスリートが集まる場所であるが、このトレーニングで身につけた体の使い方が生かされたのではないか、と思えるのだ。
 下半身の筋力強化について、ウエートトレで作り上げるやり方には反対の立場。「やはり基本、ランニングで作るもの」と考えていたという。昨今はウエートトレ全盛といった感じだが、筆者が取材現場にいたころは、金田正一氏を筆頭に昭和の大エースたちが口をそろえて「ピッチャーは走れ!走れ!だ」と強調していたことを思い出す。ここからは、岩瀬の登板記録が呼び起こした昭和のレジェンドたちへ話をつないでいくことにする。
 リリーフ専任投手が出現する前の記録を呼び起こしてみる。岩瀬の前の最多登板記録は❝ガソリンタンク❞の異名を取った米田哲也の949。その前は、前述の金田正一の944だった。日本球界最高の投手ともいえる金田だが、一塁手として1試合、代打出場が108試合ある。投手登録で1053試合出場は、凄いとしかいいようがない偉大な記録だ。
 次回は昭和時代の登板記録を探っていく。=記録は2024年4月28日時点=(続)