「評伝」-小山正明-(菅谷 齊=共同通信)

◎プロの中のプロ
 「小山さんが亡くなりました…」
 それを聞いたのは4月24日の午後2時半過ぎのことだった。都内某所で小山家からの死亡を知らせるFAXをもらった。阪神タイガースが発表するかなり前である。
 FAXには死亡は6日前の18日だった事実とメディアには阪神球団からお伝えすること、それに葬儀は既に済ませてある、などが明記されていた。すべて「小山の遺言」に沿っての始末だった。
 通算320勝の小山は全盛時代の長嶋茂雄、王貞治に同僚の村山実とともに立ち向かった。三塁に三宅秀史、遊撃に吉田義男、二塁に鎌田実、一塁に藤本。“100万㌦”の内野を形成する名人、名手が後ろに控えていた。このシーンは「入場料はいくらでも見たい」と言われたものである。
 投球フォームは歩くように投げるスタイル。きれいな回転の速球は150㌔を悠に超えていた。それも「針の穴を通すコントロール」の持ち主。加えてパームボールを駆使。ボールを投じてカウントの駆け引きをする必要のない本格派だった。
 1963年(昭和38年)12月26日、東京オリオンズの山内一弘と“世紀のトレード”成立。超ビッグニュースが全国を駆け巡った。相手は「シュート打ちの名人」の異名を取る球界屈指の強打者である。高度の技術を持つ同士の交換トレードだった。
 これを仕掛けた人物に取材したことがある。
いわく「東京のオーナーは永田雅一。大映映画のボスだよ。アッと驚くことを常に考えていたからね。大風呂敷で“永田ラッパ”と言われた人物だ。鉄道会社(阪神)ではできなかった出来事だな」。両選手については「二人とも、給料が増えるんなら、といった感じ。未練など口にしなかった。本当のプロ。まさにプロ中のプロだったな。だから実現した“奇跡のトレード”といっていい」
小山は余計なことを言わない性格だった。しゃべるときは核心を突く。一目置かれる存在だったことが分かる。確か、週刊誌だったと思うが、こんなコメントがあった。「一番速かったのは金田正一、次いで米田哲也。160㌔は投げていた。次いで私。今の投手の速球なんて私たちのころはスローボール」。