「ONの尽瘁(じんすい)」(24)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

わたしが王巨人の番記者を担当した1985(昭60)年からの3年間で、最も印象的だった年は、優勝を達成した87年ではなく、75勝を挙げながら最後の最後で広島に逆転優勝を許した86年のほうだった。それだけ勝負の悲喜交々を数多く目の当たりにしたこともあるが、ベテランから新興勢力への過渡期にあったチームで監督・王貞治がいかにチームを自分の「色」に染めあげていくか、に関心が向いたからである。
王によるチームの「変色」を、最も端的に感じたのは、「投手陣の再整備」だった。江川卓、西本聖、加藤初の先発組はいずれも最盛期を過ぎ、完投能力も落ち込んでいた。定岡正二は前年85年オフにトレードを拒否してユニホームを脱いだ。期待の槙原寬己、水野雄仁は負傷で戦力たり得るか、疑問視されていた。抑えも鹿取義隆、角三男(現・盈男)と2枚そろえながら「切り札」を特定できずにいた。
「どうしても、あと2~3枚、先発が欲しい」。王が優勝へのその絶対条件を満たすべく、ドラフトで勝負に出たことは、既述の通りー。PL学園の主砲・清原和博の1位指名をにおわせながら、水面下で同じPLのエース、桑田真澄を単独指名で獲得したのも、先発渇望の証しだったろう。
王は桑田を即戦力とみなしていた。巨人で高卒新人投手がいきなり1軍抜てきされた例は、66年の堀内恒夫(甲府商から入団)を除いて、まずなかった。王はそうした慣例を打ち破っても桑田の早期1軍の画を描いていた。一方で、投手コーチに招へいされた皆川睦雄は、その育成に慎重だった。「いくら即戦力といっても高校を出たばかり。ここは体力強化からじっくり育てるべきです」と王に進言。投手陣の整備に関して、同コーチに一任した手前もあり、王も最後は同意せざるを得なかった。ここに桑田のキャンプからの2軍スタートが決まったのである。
当時の巨人のキャンプ地は1軍がグアムと宮崎、2軍は宮崎。1軍が宮崎に合流してもメインの球場はそれぞれ別だった。このため、スポーツ各紙は桑田の一挙一動を追う「桑田番」を設けて取材態勢を整えた。わが古巣の日刊スポーツでも、巨人担当記者は3人のうちキャリアの最も浅い記者が桑田番に就き、2軍のイースタンの試合にも同行した。
若い槙原、水野、桑田を欠く投手陣。王は開幕から社会人出身の新人左腕、宮本和知と救援もできる斎藤雅樹を先発で回したものの、得心までには至らなかった。後に、王は言った。「(宮本と斎藤雅の)2人には、江川、西本、加藤をしのぐ成績を挙げるのでは、という計算があった。今、考えると甘い計算なんですが…。それくらい2人ともオープン戦で目立っていた」。
それでも好調打撃陣に引っ張られるように、江川、加藤初ら先発陣の奮闘もあって4月を10勝8敗1分けの「貯金2」で駆け抜けた。そして、翌5月。王が待ち望んだ戦力が相次いで復帰を果たす。同3日の阪神戦で右肩痛が癒えた水野が644日ぶり登板。同10日の広島戦で左股関節骨折からカムバックの槙原が、300日ぶりにマウンドに立った。
2人の後に続いたのが、注目の桑田だった。同17日のイースタン、西武戦で14奪三振の完投勝利をマークすると、待望の1軍合流。「(1軍の試合は)今までずっとテレビでしか見てなかったけど、これで自分の仕事としてやれるんで、期待がすごく大きい。精いっぱい頑張ろうと思います」。桑田は初々しく初の1軍に思いをたぎらせた。
誰より桑田の1軍を待ちわびた王は、出し惜しむことなく若武者を起用した。同25日の中日戦で地ならしとして2番手でプロ初登板させ(1イニング、2安打、1三振で1失点)、同28日の阪神戦(甲子園)では初先発の舞台を踏ませた。さすがの桑田も「聖地」での初先発となると勝手が違ったようだ。バース、ゲイルに1発を浴び、4回途中、4失点KOを食らった。
その「リベンジ」は、6月5日の後楽園での阪神戦。先の試合で1発を見舞われたバースに対して、初回インハイで三邪飛、7回外角高めへ、いずれもストレート勝負で空振り三振に仕留めている。桑田は完投で初勝利。ヒーローインタビューでは「ある程度手応えはあったんですが、こんなに早く力を発揮できるとは思ってなかった」と素直に喜びをかみしめたものだった。
桑田のプロ初年度は15試合に登板、2勝1敗、防御率5.14。即戦力としての期待にはほど遠かったものの、その存在は、ベテラン3本柱に槙原、斎藤雅、水野らを加えた先発ローテーションに厚みを増す足がかりになった。86年シーズン、王の投手陣強靱化策は、同時に、救援陣にも向けられていた。(続)

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