「勝手にスポーツコラム」(1)-(船原 勝英=共同通信)

◎「ヘーイ、カール」と呼び掛けた夜 
 筆者が共同通信に入社したのは1974年のこと。新人記者は社内で先輩記者の電話送稿を書き取る「原稿取り」が主な仕事だった。シーズン半ばの神宮球場で初めて長嶋茂雄を間近に見たのは、スコアブックを記入しながら取材のイロハを教わる見習い期間中だった。引退試合の日も、ダブルヘッダー第1試合を球場で一ファンとして観戦し、試合後は社内で先輩記者の原稿取り。どの記事も腕によりをかけたと分かる筆致で、併殺打もあり、444号本塁打もあった試合の戦評の締め括りが「~二度と踏むことのないホームプレートを(松本剛)。」だったことは忘れられない。
 翌年から福岡支社へ異動となり、本社へ戻ってからも西武など主にパ・リーグ担当だったので、長嶋さんとのご縁は薄かった。ところが、1987年から陸上など五輪競技担当となってから逆に接点が生まれた。世界陸上は当時、日本テレビが放映権を持っており、長嶋さんはリポーターとして欧米の競技会へ頻繁に足を運んでいた。
 1987年の世界陸上ローマ大会では、直前にスーパースターのカール・ルイス(米国)が日本のミズノとシューズ契約を交わしたこともあり、大々的な記者会見が開かれた。ローマ近郊の豪華な山荘に、世界中から200人を超えるメディア関係者が詰めかけた。長嶋さんはいつものように報知新聞のベテランKさんとともに現れ、到着したルイスを会場前で「ヘーイ、カール」と迎えた。全米選手権など米国での取材も続けていたから、ルイスは旧知の長嶋さんの姿を認めると歩み寄って握手。なかなか豪華な雰囲気を醸し出していた。
 2年後、バルセロナで開かれた陸上のワールドカップでは、本社からの指示でダイエー・ホークス・杉浦忠監督に関するコメント取材をした。「うん、スギね」といつもの快活な調子で始まり、5分ほどのインタビューではあったが、これが1対1で取材したただ1度の機会。ベテランの野球記者に鼻で笑われそうな「長嶋取材」だが、浪人中だったがゆえに生まれた貴重なご縁だった。
 そして1991年の世界陸上東京大会。大会2日目の男子100mで、30歳のルイスが9秒86の世界記録を樹立して優勝した。大会前の予想では、7歳若い上り調子のチームメイト、リーロイ・バレルが優位との見方が支配的だった。本番でも、バレルが前半から圧倒的な強さでリードしたが、70m過ぎから追い上げたルイスが残り5mほどで抜き返してフィニッシュした。
ルイスにとっては念願だった初の世界記録樹立。ローマの世界陸上では格下とみられたベン・ジョンソン(カナダ)が9秒83の世界記録で優勝し、ルイスはまさかの2着だった。翌年のソウル五輪でも9秒79の世界記録を樹立したジョンソンの圧勝だったが、大会中にドーピング違反が判明して金メダルはく奪、記録抹消となった。繰り上げでルイスが両大会の優勝者にはなったが、王者のプライドは深く傷付けられていた。それらすべてを拭い去る会心のレースに、日頃クールなルイスが珍しく感情を爆発させ、涙を流して喜んだのである。
いまほどスプリンターの競技寿命が長くなかった時代。長嶋さんもそのことは十分に承知していただろうし、自らの経験からも競技晩年でこの活躍がいかに困難なことだったかはよく分かったはずだ。眼前で展開された奇跡的なパフォーマンスに、スタンドから思わず「ヘーイ、カール」と声を掛けた。この場面は長嶋さんの天然ぶりを揶揄する文脈で語られるが、当時の日本人リポーターで最も頻繁にルイスを取材してスーパースター同士の強い絆が生まれており、その心情の発露だったのだと思う。
 あれから34年。9月には再び東京で世界陸上が開催される。ルイスは7月Ⅰ日に64歳を迎えたが、長嶋さん死去に関するコメントを寡聞にして知らない。多くの人々がミスターを語るなか、筆者はカール・ルイスの長嶋茂雄評をじっくり聞いてみたい。(了)

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