「評伝」-大橋 穣-(菅谷 齊=共同通信)
◎大リーグ級、天下一品のバカ肩
この猛暑の7月25日に亡くなった大橋穣(ゆたか)は、今の時代なら守備だけで大リーグからスカウトされただろう。強肩に超をつけた“バカ肩”を持つ遊撃手だった。
1971年(昭和46年)オフ、東映から阪急に移籍。担当記者だった小生は、西本幸雄監督にそのいきさつを訪ねた。「長嶋(茂雄)のゴロな、普通なら簡単に処理して終わりや。それが、お前、サヨナラ負けやで」との答え。
この年の巨人との日本シリーズに敗戦の因があったというのである。1勝1敗で迎えた第3戦(後楽園)はエースの山田久志が力投、1-0のスコアで9回裏を迎えた。1死から柴田勲四球のあと柳田敏郎右飛で2死。続く長嶋の一打は遊撃右を渋く抜けて中前安打となり、走者1、3塁。ここで王貞治に右翼席へ3ランを浴びた。
西本は王に打順が回った長嶋のゴロをさばけなかった遊撃手の守備の敗戦のポイントと見たのだった。そこで手を打ったのが大橋獲得のトレードである。
遊撃手の阪本敏三は打撃が良かった。平安高時代、夏の甲子園大会で優勝した法政二高のエース柴田から4安打した実力を持ち、立命館大-河合楽器でも打で活躍し、阪急初優勝に貢献。チームの功労者でもあり幹部候補だった。
そんな選手を放出しで代わりの獲得したのが大橋だった。大橋は亜大で20本塁打の東都大学リーグ最多をマーク。同期生に東京六大学リーグ最多22本塁打を放った法大の田淵がいたため注目度は薄かった。入団したのが東映で、そこには張本勲や大杉勝男ら強打者がずらり。打では全く目立たなかった。
ところがこと守備となると、どこのチームも五重丸をつけるほどの遊撃手だった。深く守り一塁まで60㍍ほどのスローイングで多くの打者が三遊間の安打になるはずの一打をアウトにされた。阪急の4番打者だったプルヒッターの長池徳二はその強肩にしてやられた代表的な打者だった。
阪急に移った大橋は内野と外野の境にある芝を削った。3㍍ぐらいの半円で左翼手に近いところで守った。遊撃にゴロが飛ぶと、スタンドから一斉に拍手が起きた。遠投で刺すバカ肩を見てファンは大満足するのだった。この守備は阪急の本拠地、西宮球場の売り物となった。右方向の長打のときは二塁手に代わって中継プレーに入るなど、大橋中心の守備のフォーメーションが出来上がった。
「大橋の守備は本塁打以上の値打ちがある」と西本監督は得意満面だった。大橋の守備はそれまでの遊撃手をはるかにしのぐ豪快で大型だった。阪神の名手で知られる吉田義男と並ぶ逸材といえ、大リーガーでもあれほどの守備位置と天下一品のバカ肩はなかなかいない。
大橋以後、ゴロが転がるだけでワッと拍手が起こる選手を見たことがない。(了)
