「ONの尽瘁(じんすい)」(25)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

王貞治が巨人監督時に確立した戦略に「勝利の方程式」がある。先発陣が6~7回までを投げ、残りのイニングを少なくても2~3人の救援陣で抑える継投策だ。典型的なパターンは先発の後、角三男、鹿取義隆、守護神サンチェの3人でそれぞれ1イニングずつを守る。きっちり1イニングずつのときもあれば、鹿取か角がイニングまたぎのあと、もう一方がワンポイント登板。最後はサンチェに締めさせることもあった。この3人による継投は、王自身が後に「三段締め」と名付けて、自賛したものだ。
サンチェの前の2人が不調のときは水野雄仁、斎藤雅樹ら先発組も継ぎ込み、方程式にバリエーションをもたせた。今の球界でこそ先発、セットアッパー、クローザーと投手陣の役割分担は明確になってきたが、まだまだ救援陣の働きが今ほど評価されていない時代にあって、王はその「未踏」の地に挑んでいったのである。
それは1985(昭60)年シーズンの反省に起因する。同年は優勝した阪神、2位広島に大きく差を付けられ3位に終わったシーズンだが、何より敗因は2点差以内の僅差ゲームで26勝27敗と競り負けたことにあった。救援陣では鹿取が130試合の半分近い60試合を投げ4勝4S、角が42試合で1勝5S。登板数の割にセーブ数や勝利数に結びつかない矛盾こそが、終盤を任せるに足る戦力の希薄さになって現われていた。
王は救援陣の充実とクローザーの確立を戦力補強の核に据えた。当初獲得を狙ったメジャーリーガーではなかったが、初優勝への最強ピースとなるクローザーに、エンゼルス(巨人移籍時はエクスポズ所属)でストッパーとして鳴らしたサンチェを獲得。ラスト1イニングはこの「カリブの怪人」の武器であるスライダーに託した。
王と投手コーチに迎えた皆川睦雄が腐心したのは、鹿取と角の起用法だった。先発陣の江川卓、西本聖、加藤初はいずれも全盛期を過ぎ、完投能力も落ちていた。一方で桑田真澄、槙原寬己ら若手に安定的なローテを求めるには、いましばらく時間が必要だった。このため先発降板後、サンチェにつなぐまでの2~3イニングを鹿取と角に任せる形が取られた。鹿取には数球の投球練習だけで肩ができあがる、中継ぎ登板に利した特性があったし、角には救援としての豊富な経験値があった。
王が確立したこの方程式は、優勝への必要条件だった。ある球界関係者が言ったことを覚えている。「王さんは型にはまった選手起用が得意な指揮官。この継投は実に王さんらしい。巨人の勝ちパターンができたと言える」と評価した。
翌86年は優勝に「あと1勝」届かずの2位も、継投の効果が出て懸案だった2点差以内を28勝24敗と勝ち越した。チーム防御率も85年の3.96から3.12まで改善された。個人成績を見てもサンチェが37試合に登板して4勝19Sでセーブ王のタイトル獲得。鹿取は59試合で4勝4S、角は54試合で2勝2Sと数字にこそ直結しなかったが、打者1人にぜいたくに救援1人をあてがう「一人一殺」の役を担った。
王の前任である藤田元司政権下(81~83年)と王政権下(84~86年)で、1試合に起用された投手の「人数」を比較したデータ(【注】以下のカッコ内数字は試合数。藤田政権下、王政権下の順)がある。
▷完投(139、91)▷2人(124、71)▷3人(82、85)▷4人(33、74)▷5人(12、52)▷6人(0、15)▷7人(0、1)▷8人(0、1)
藤田は完投、2人で130試合の67%を占め、投入しても3人までという試合が大多数。一方の王は完投が少なく、3~5人の継投が根幹を成している。最多は8人に及ぶ。
主戦の年齢やコンディションの良し悪し、ケガの有無もあり、両指揮官の起用の差異を一概に比較するのは難しい。それでもこのデータはいかに王が鹿取、角、サンチェを中心とした「三段締め」に頼っていたかの証左といえ、優勝を遂げる翌87年シーズンの最大要因となった。ただ、サンチェが不調だった同年は鹿取の登板過多となり、来る日も来る日も鹿取を投入せざるを得なかった現状をして「鹿取大明神」なる流行語も生まれた。こうした起用は王の名の中国語読みをもじって「ワンパターン」とも揶揄(やゆ)された。
「何と言われても、オレが一番勝ちたいんだ!」。それでも王はなりふり構わず、自分のスタイルを貫き通した。(続)