「ONの尽瘁(じんすい)」(34)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

王貞治が巨人監督としての初優勝を手にするまで4年もかかった背景に、レギュラーがベテランから若手への「過渡期」にあったことが挙げられる。
優勝した1987(昭62)年時の主力を見ると、打者で松本匡史、中畑清がともに33歳、クロマティ34歳、篠塚利夫30歳。若大将・原辰徳さえ30歳代が目前だった。投手陣なら加藤初38歳、江川卓32歳、西本聖、角三男31歳…。よく言えば円熟味を帯びた「大人の集団」も、彼らを脅かす24~28歳ほどの中堅層の台頭にはまだ物足りなさがあった。
王は、何より、「自前」による若手の成長を欲した。ただ、勝つだけではない。既存のベテラン勢だけではなく、そこにみずからが育てた若手との融合による勝利を求めた。王の2代前の指揮官、長嶋茂雄が75年オフの伊東キャンプで中畑、松本、江川らを鍛え、いわゆる「長嶋チルドレン」に仕立て上げたことで翌年の優勝につなげたように…。
王のターゲットは、「旧50番トリオ」だった。
背番号「50」駒田徳広、「55」吉村禎章と「54」槙原寬己。吉村は既に「7」、槙原も「17」に背番号が出世して若くなっていた。残る駒田も翌年には「10」となるため、87年は50番トリオの名残を留める〝ラストイヤー〟だった。
駒田は当時25歳。その4年前の開幕戦でプロ野球史上初の「初打席満塁弾」というド派手なデビューを飾ったものの、王が「跡継ぎ」として期待を寄せた「一本足打法」の習得に挫折してからというもの、チャンスに恵まれない冬の時期が続いた。それでも2軍でレベルスイングへのフォーム改造に取り組むなかで、徐々に復調。ついには松本に取って代わり1番に定着するまでになっていた。
王が駒田の1発を最大評価したことがある。それは、9月8日の広島との首位決戦3連戦(後楽園)の初戦。4-5と敗色濃厚の9回2死、相手の守護神・津田恒実から放った起死回生の右越え同点弾に対して向けられたものだ。試合は延長10回5-5のドローも、前年86年に勝率わずか3厘差でペナント奪取を逸した王だけに「あれは勝ちに等しいドロー」と負けなかった功績を称えた。
当時24歳の吉村は、王が監督就任の84年以降、次代のリーダーとしての素養を見込まれ、既に能力を発揮させ外野レギュラーの一角を占めつつあった。優勝した87年シーズンは開幕直後、左肩痛に悩まされ外野守備で山なりのボールしか内野に返せないリスクはあったが、それを差し引いて余りある打撃は高く評価され、ほぼ全試合にあたる127試合に出場。打率は4年連続の3割台(.322)をマーク。さらに、キャリアハイの30本塁打、86打点と、もはや王巨人に必要不可欠なピースとなった。
そして、王が誰よりエースとして復帰を待ちわびたのが24歳の槙原だった。指揮官の期待を裏付ける、「逆説的」な出来事がある。4月30日中日戦でKOされた槙原は、即刻2軍落ちを命じられた。先発してもあせりが先行、独り相撲を取っては崩れるそのパターンを指して、王は言った。「1軍にいても同じだ!ファームで調整して来い!」。
以前の王なら「ここまで」だったろう。だが、「ここから」が違った。
選手と壁を作り、厳しく接したのは過去の話。就任4年目、厳しさのなかに王なりの「アフターケア」が添えられるようになった。2軍行きを命じ、王はしょげ返る槙原にこうも言った。「再登録(当時14日間)の日が来たら1軍に上げる。その当日にお前を先発させる。大事な広島戦だ。そのとき〝広島封じ〟のピッチングを見せてくれ!」。
果たせるかな!槙原は5月15日の1軍昇格と同時に広島戦(後楽園)に先発。7回を投げ1失点と好投し初勝利を挙げ、復調のきっかけをつかんだ。「あのとき2軍落ちしていなければ、それ以降のボクはなかった」。新人王奪取の83年以来の2ケタ勝利(10勝)を挙げ、王が初めて進出した日本シリーズ(対西武、第4戦)でも好投した。
先のドラフトで単独指名の末に獲得した桑田のプロ2年目の開花に続き、若手先発陣の「双璧」となる槙原の復帰。野手では河埜和正の引退で空いた遊撃レギュラー争いで岡崎郁と西武から移籍の鴻野淳基が競い、外野部門で駒田と吉村がスタメンを不動のものに…。かくして、王の描く「若き巨人」の群像が4年目にしてようやく姿を見せ始めた。(続)

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