「ONの尽瘁(じんすい)」(35)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

1987(昭62)年王貞治が巨人軍監督としてペナントを初奪取するうえで、乗り越えなくてはならない「壁」がいくつかあった。その1つが、チームの中心選手、中畑清との関係改善ではなかったか。といってもこの2人、決して仲が悪かったわけではないのだが、ある因縁があるのも確かだった。その2年前の中畑の発言を巡って、王には嚥下(えんげ=のみくだす)されないまま喉元につかえる小骨のようなものが残っていたのだ。
85年、中畑が王を「ワン公」と呼び批判した取材のオフレコテープの存在が明るみに出た。週刊誌に暴露され、発覚後中畑は直ちに王に謝罪の電話を入れた。王は「何も聞かなかったことにする」と応え、表面を糊塗しようとするがそれで済むほど問題の本質は浅くはない。王政権下では長嶋第1次政権(75~80年)で若手だった、いわゆる「長嶋派」とされた選手が主力を担っており、時折、彼らによる王への言動が世間をにぎわせていた。この問題発言が噴出したときも王はさしずめ「またか…」の思いを濃くしたに違いなかった。
勝負の世界で常に言われる格言めいた言葉がある。「勝てば、すべては美しい思い出になる」。その過程で失敗や苦労があっても、勝ちさえすればすべて消し去り、よき思い出にすり替えることができる。勝負は最後に勝てばいい、ということだろう。
87年のシーズンを迎えるにあたり、王は中畑にチームのまとめ役を厳命した。
「キャプテンになったつもりでやってくれ!」
既に労組・プロ野球選手会の初代会長としてプロ野球界が抱える諸問題に取り組んでいた男の琴線にビンビン訴えるようなその言い回しは、それまでの王には幾分苦手なやり口だったが、「優勝に待ったなし」の状況で手をこまぬいている場合ではない。選手との溝を取っ払い、選手との側に降りてその距離を縮めるー。王はそこに徹した。
中畑も持ち前の元気印を旗頭にした全力プレーで呼応した。オープン戦こそ打率1割台で低迷したが、開幕すればなんと「ゼッコーチョー!」の中畑節が聞こえぬ日がないではないか!コンスタントに3割台をキープし、キャリアハイの3割2分1厘をマーク。リーグの打撃30傑で6位に食い込んだ。
中畑のキャプテンシーは効き目があった。プロ2年目を迎えた桑田真澄に「お前は今年が一番重要な年だ。チャラチャラしないで全力を尽くせ!」とハッパ。チーム内で浮いた存在だった西本聖には「お前が誰より練習熱心なのはわかるが、みんなと一緒に戦っていることを忘れるなよ」と苦言を呈し、嫌われ役も買ってでた。
中畑と同じく長嶋派の1人だった篠塚利夫(当時)にとっても87年は忘れがたいシーズンだった。広島の正田耕三と同率の3割3分3厘で2度目の首位打者に輝いたのだが、苦労の末の産物だったからだ。篠塚は、闘志を前面に出すタイプではない。持病の腰痛のため夏場に疲れがたまると試合を欠場しがちになった。そんなプレースタイルを物足りないと見る首脳もいて「シノはまたやる気が薄れているようだ。あいつはどうもわからん」とのそしりを受けた。篠塚はそうした声にあらがいながら、言ったものだ。「そう言われるのは腹立たしいけど、とにかく優勝すればそんな誤解は帳消しになるし、一生懸命やってるんだ、ということも理解されるようになる」と前向きに処理しようとした。
優勝すれば、すべて消える。中畑も、篠塚も、その一念に突き動かされ、乗り越えられた87年シーズンだったに違いない。2人に引っ張られるように、規定打席をクリアしての3割到達者は原辰徳、吉村禎章、クロマティも加わり5人に。10勝以上の投手も桑田、江川卓、槙原寛己、水野雄仁の4人を数え、抑えで鹿取義隆が連投の酷使に耐え抜いた。投打の強じんな歯車がかみあってこその球団4年ぶりのペナント奪取。それはそれまで積もった王の苦悩と怨嗟をも消し去る術(すべ)となったのではないだろうか。(続)

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