「ONの尽瘁(じんすい)」(36)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

王貞治が巨人軍監督の初優勝を勝ち取るに際して乗り越えるべき2つ目の「壁」は、星野仙一だった。
1987(昭62)年から中日監督に就任した星野は、徹底した巨人封じ策を講じた。前年オフ、ロッテ落合博満がトレード騒動に揺れたときも「巨人に奪われては向こう何年も勝てない」と、いわば横やりを入れる形で、抑えの切り札だった牛島和彦を柱とする「1対4」の大型トレードを敢行してまで、三冠王3度の好打者を獲得したのもその一例だった。
現役時代から対巨人となると闘争心をむき出しにした投球で王や長嶋茂雄に立ち向かったが、指揮官となっても打倒巨人のスタンスに変わりはなく、むしろその色合いは濃くなったようにみえた。
現役時代の星野の対巨人通算成績は35勝31敗の勝率5割3分。勝ち星では6位タイながら、通算30勝以上の投手で星野は勝率1位に立つ。ことに71年8月27日~73年7月15日にかけて対巨人10連勝を飾っている。
ちなみに現役時代の王対星野は、打率3割1分8厘。24本塁打。対長嶋の打率が2割3分4厘だったことからしても、王には打たれていた。星野が敵対心を燃えたぎらせたのも想像に難くない。
87年6月11日、熊本で行われた巨人対中日で星野の激情が一気にほとばしったシーンを、この目で、しかと見たー。
試合は0-0のまま7回裏に差し掛かっていた。5回からマウンドにいた中日2番手の宮下昌己は2死を取って打席にクロマティを迎えた。初球がその右脇腹を直撃。怒ったクロマティはヘルメットをかなぐり捨て、マウンドに突進。宮下の顔面に右ストレートを1発見舞った。あっという間に両軍ベンチは空っぽ。マウンド周辺のあちこちにくんずほぐれつ、押し合いへしあいのかたまりが見えた。
その中でわたしが衝撃を受けたのは、「闘将星野」そのままの姿だった。星野は王の胸ぐらをつかみ、次には殴らんばかりにその鼻先にみずからの拳を向けながら、声を荒らげている。一方の王は、「まあ、まあ…」とでも言うように星野に自重を促すようなしぐさをみせた。わたしには、それが一触即発の前触れに見え、思わず身構えたものだった。
巨人の選手にとっても、星野のヒートアップ加減は衝撃的だったようだ。中畑清は言う。「冗談じゃない。何様だと思ってるんだ!絶対、中日をたたきつぶしてやる!」と息巻いた。
当時中日の正捕手だった中村武志が後に自軍の闘将が発した言葉を述懐している。「星野さんは『これ(グー)はいかんでしょう!!』と抗議していた」。星野の指導の中には、ビンタや平手打ちなど同じ殴り方でも「大事に至らない」やり方があるはず、とする星野なりの哲学があった。クロマティの1発はそれを逸脱するものだったというのが、王の鼻先への拳の意味だった、というのだ。
同日の試合は5-1で巨人が快勝したが、王が、向かう峰の前に屹立(きつりつ)する男の存在をいやというほど思い知らされた、後味の悪さが残る夜だった。
星野はその後も、持ち前の戦力を出し惜しみすることなく送り出し王に迫った。高校出の新人左腕・近藤真一もその1人だった。
8月9日のナゴヤ球場での一戦。プロ入り初先発となる近藤ながら、臆するところはまるでなし。球速140㌔台の速球と大きなカーブの落差に巨人ナインはタイミングを外されっ放しで4回まで7三振。篠塚利夫、原辰徳、クロマティの中軸のバットはことごとく空を切った。6回に早くも10個目を喫した。しかもここまで何と、ノーヒット。
記録への関心が高まる中、重圧など知らない青年はひたすらギアを上げ続ける。7、8回も無安打で切り抜け、さあ、9回。代打仁村薫、鴻野淳基がともに三ゴロに倒れた。頼みの好打者・篠塚もカウント2-2からカーブに手が出ず、13個目の三振でゲームセット。
王は後半戦早々、史上初となるプロ初登板ノーヒット・ノーランの屈辱にまみれ、試合後「近藤の先発はないと読んでいたが、こうなっては予想が当たる、外れるの問題じゃない…」とぶ然たる面持ちのまま球場を去った。
近藤には9月30日(ナゴヤ)に再び完封を許す始末。すっかり星野の策略に屈した格好だったが、トータルで見れば中日戦は14勝10敗(2分け)と勝ち越した。広島戦だけは10勝11敗(5分け)と分が悪かったものの、下位のヤクルト、大洋、阪神戦で各9つ以上の勝ち越しを残したことが奏功。前年優勝を逃したときの75勝を上回る76勝で初の戴冠を得た。その上積み分の「1勝」にこそ、王の意地と矜持が感じ取れるようだ。(続)

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