「ONの尽瘁(じんすい)」(37)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

監督・王貞治が巨人初優勝のため越えなければならなかった「壁」の3つ目。それは、広島東洋カープだった。王が就任した1984(昭59)年、巨人の3位に対し、広島は古葉竹識政権10年目にして4度目のリーグ優勝。私が番記者に就いた85年は巨人3位に対し、広島は2位。86年は巨人の2位に対し、阿南準郎率いる広島が逆転優勝と、王巨人はことごとく赤ヘル軍団の後塵を拝してきた。
ことに86年は当時(130試合制)のVラインと目された「75勝」を挙げながら、勝率わずか3厘差で広島にペナントをかっさらわれ、王の「進退伺い」につながった苦いシーズンでもあった。なおさら「広島に雪辱したうえで、頂点」を目指したとしても不思議ではない。
案の定、87年シーズンも広島は巨人にからんできた。ただ、王に救いだったのは、このシーズンのセ・リーグは広島だけではなく闘将・星野仙一が監督に就いた中日ともども三つ巴の様相を呈したことだった。
それぞれの対戦成績を見てみるー。
巨人対広島は、巨人の11勝10敗5分けとほぼ互角。一方巨人対中日は巨人の10勝14敗2分け。そして、中日対広島は中日の9勝13敗4分けだった。つまり、巨人にとって星野中日は天敵となったが、その中日は広島によって押さえ込まれた。中日にすれば巨人戦で優位に戦えても、広島との戦いに疲弊して巨人を突き放せなかった。広島は中日に優勢ながら、巨人を前年(14勝11敗1分け)ほど苦しめられず、しかも最終順位は中日にも届かぬ3位に終わった。
では、シーズンにおける3強の戦いぶりを振り返ってみたい。
開幕直後から3チームが首位争いを演じ、6月上旬には何度も首位が入れ替わる混戦模様を呈した。巨人が頭一つ抜けても、中日、広島も6割台の勝率を保ち、独走を許さない。ことに広島は古葉時代の「勝つ野球」を熟知しており、7月末まで首位巨人と優勝争いぎりぎりの「3.5差以内」をキープしたまま、ピタリ追走した。
投打がかみ合った巨人に対し、広島と中日は盛夏本番の8月に入る頃から脱落していく。ことに広島は中日に2位を取って代わられた。というのも監督の阿南はペナントとは別にチーム運営の難しさを抱えていた。前年86年の山本浩二に続く、40歳・衣笠祥雄の引退問題だ。既に連続試合出場の世界記録(当時)は「2215」まで更新していたとはいえ、プロ野球選手2人目の「国民栄誉賞」受賞者の起用を巡って、暑さが体力的にこたえる超ベテランをどう使うか?しかも出場記録に「配慮」しながら…。本人はもとより、球団との話し合いを続けた阿南の腐心の末、9月21日、衣笠の引退が発表された。広島の「至宝コンビ」の引退に2年連続でかかわった阿南の神経のすり減らし方とチームの下降線は無関係とはいえないだろう。
王巨人は逆に、8月を迎える頃、貯金を「25」と潤沢なものにした。この時期の王のコメントには、「自重」と「余裕」があざなえる螺旋(らせん)状の筋をなす中、マスコミへのリップサービス的なものもうかがえるようになっていた。
たとえば、「貯金といいますか…。それが『25』あたりまで来るのは、あまり考えられなかったですね。そういう意味では、100点というより、120点!」といった具合に。
王が初制覇へ確信を深めた一戦を挙げるなら、87年8月19日、後楽園での対広島2連戦の初戦だろうか。広島先発金石昭人の好投の前に巨人は0-1のまま、9回裏最後の攻撃を迎えた。マウンドには8回からイニングをまたぐ赤ヘルの絶対的守護神・津田恒実。無死一塁から、クロマティがサヨナラの20号2ラン!ベンチから王は真っ先に飛び出して喜びを爆発させた。2位中日とは4差、3位広島とは5.5差にそれぞれゲーム差を押し広げ、両チームとの差をさらに広げる端緒となった。
9月26日の阪神戦(後楽園)での快勝を受け、王にとって初の優勝マジック「8」が点灯した。翌27日には「M6」、10月3日には「M4」とカウントダウンが本格化する。7日のヤクルト戦(後楽園)は原辰徳の逆転3ランなどで、「M1」に。いよいよ、4年間待ち焦がれた、その瞬間(とき)が、目前に迫った。(続)