「勝手にスポーツコラム」(8)-(船原 勝英=共同通信)
◎平和台に白仁天がいた頃
NPBで首位打者を獲得し、母国の韓国野球創設シーズンに打率4割越えでタイトルホルダーになった白仁天さんが、8月15日に死去した。83歳だった。
僕が初めて身近に接したのは、1975年初夏に福岡支社へ転勤して平和台球場で太平洋クラブ・ライオンズを取材するようになった時。選手兼任の故江藤慎一監督が率いるチームには、近鉄から「無冠の帝王」土井正博外野手が移籍しており、東尾修投手がエースだった。「黒い霧事件」で大きく戦力ダウンし、西鉄身売り後のスポンサーに太平洋クラブが応じたとはいえ、資金力も弱く選手層は薄かった。ところがこのシーズン、土井が念願の本塁打王(34本)のタイトルを獲得し、最多勝(23勝)に輝いた東尾、3割1分9厘で首位打者になった白外野手らの活躍で前期2位とライオンズは久々に躍動した。
「山賊打線」と命名された打撃陣には、タイトルを獲得した2人以外にも役者がいた。米大リーグの一流、ドン・ビュフォード(打率2割7分6厘、21本塁打)、マティ・アルー(2割8分2厘)はさすがというプレーを見せたし、基満男、竹ノ内雅史らひと癖ある個性派が健在だった。投手陣では阪急から移籍したベテラン石井茂雄、下手投げの木原義隆がともに9勝をマーク。後期は息切れして4位に落ちたものの、通算では福岡時代最後のAクラス(3位=58勝62敗10分けの4割8分3厘)入りを果たした。
174㎝、82㎏のずんぐりした体格の白は、いつも汗まみれになって練習。試合では激しい気性そのままにアグレッシブなプレーを見せた。日本語もなかなか達者で、試合前にベンチで談笑していて急にムキになって口をとがらせることがあった。東映時代は張本勲、大杉勝男ら血の気の多いメンバーの一員だったことは知られていたが、ちょっとした冗談が通じなかったのかもしれない。それでも、真っ正直な人柄そのままに、僕ら若い担当記者の問い掛けにも丁寧に対応してくれた記憶がある。
当時の平和台球場には、前身の西鉄時代からの熱狂的なファンが詰めかけていた。73年のロッテとの「遺恨試合」の記憶はまだ生々しく、ロッテ戦で敗れると逆上したファンがグラウンドへビール瓶や一升瓶を投げ込んできた。野球場で飛来物を避けながらベンチへ逃げ込む経験は、滅多にできるものではない。球場出口が取り囲まれて金田正一監督らチームが立ち往生し、福岡県警機動隊が出動してようやく平和台を抜け出したこともあった。
資金難にあえぐ球団の坂井保之代表が、持ち前の興行師的センスでロッテとの対立を煽り、「客寄せ作戦」に知恵を絞っていた時代。東京では考えられない荒っぽい出来事が頻発し、駆け出し記者にとってはワクワク、ハラハラの日々だった。
白は77年にロッテに移籍し、81年に近鉄でプレーしてNPBでの現役を終えた。発足した韓国プロ野球のMBCへ招かれると、今も韓国リーグ記録として残る4割1分2厘の高打率で首位打者に輝いた。出塁率.497、長打率.740、OPS1.237の驚異的な内容。発足したばかりの韓国野球は、まだ日本球界とのレベル差がかなりあった。このシーズンに広島から三美入りした福士明夫(故人)は30勝16敗6セーブ、427回3分の1を投げて防御率2.34という異次元の働きだった。
僕は81年に本社運動部へ戻り、根本陸夫監督率いる西武ライオンズ担当になった。このシーズンは3位だったが、新人王に輝いた石毛宏典が躍動。翌年は広岡達朗監督が就任し、いきなり日本一に駆け上がるライオンズ黄金期の始まりだった。発足したばかりの韓国野球の担当も兼ね、日々の結果をフォローしていた。
84年には稲尾和久監督が就任したロッテの担当になり、チームは前年の最下位から2位へ躍進した。日韓で球団を運営する重光オーナーら首脳陣は大喜びで、日本シリーズ中にオリオンズの韓国遠征を挙行。僕ら担当記者も招待され、釜山とソウルでロッテ・ジャイアンツ、MBCなどとの日韓戦を初めて取材した。
選手兼任監督の白仁天はMBC、三美でプレー。現役引退後もLG、サムソンなどで監督・コーチを務め、2003年のロッテ・ジャイアンツでユニフォームを脱いだ。60歳になっていた。草創期は日本の野球がお手本だった韓国野球はその後、大リーグ的なパワー重視のプレーへ移行していった。日本と韓国の橋渡し役だった白仁天の時代も終わりを告げていたのだろう。(了)
