「スポーツアナウンサーの喜怒哀楽」(32)-(佐塚 元章=NHK)
◎「私にとっての訃報欄」坂東英二さん
自分も齢をとったせいか、新聞を読む時は訃報欄に目がいってしまう。まず亡くなった方の年齢を確認すると、自分の年齢75を引き算する。そして故人との思い出を思い浮かべる。
今回は2026年7月22日に86歳で旅立った板東英二さんである。板東さんは私の初任地徳島の英雄。6歳で満州から引き揚げ、毎日の食事にも困るほど貧困生活を送ったと聞く。 徳島商3年の時、1958(昭和33)年夏の甲子園準々決勝で魚津高(富山)と史上初の延長18回引き分け、再試合を演じて準優勝した。大会通算83奪三振はいまだ大会記録である。実はその年の春の四国大会では2試合で41回も投げているのだ。現代の球数制限など何をか言わんやである。
中日ドラゴンズに入団し11年間で通算77勝。しかしテレビが普及していなかったこともあり、その姿をイメージする人は少ない。むしろ引退後のタレント板東さんの姿はみんな知っている。司会、歌手、俳優、ラジオパーソナリティーなど、その才能に驚嘆していた。元プロ野球選手だったことを知らない人も多かった。
実は、私は年代の差もあり、板東さんとは面識がないが、入局3年目の75(昭和50)年夏24歳、怖いもの知らずの私は高校野球徳島大会実況の試合とイニングの合間の電話インタビューをお願いした。しかも番組予算がなく「ノーギャラ」で。有名タレントになんとも失礼な出演交渉である。ところが板東さんは快く引き受けてくれたのだ。本番ではこちらの意図を説明しなくても、期待する応えを語ってくれた。まさにプロであった。
その中で「高校3年の夏、長き甲子園大会を終わってフェリーで帰ってくる時、港の向こうに徳島の象徴眉山(びざん、標高290メートル)が見えた。嬉しかった。疲れも吹っ飛びましたよ」と語ってくれた。徳島ローカル放送でこれほどのコメントはない。タレント板東さんの原点は郷土愛とサービス精神だったと思う。
その人生はプロ野球選手の引退後のキャリアイメージにも貢献したと思う。私はプロ野球アナウンサーとなり、チャンスがあったら「あの時のノーギャラの件」をお詫びし、御礼を言おうと思っていたのだが、そのチャンはとうとうなかった。
ありがとうございました。ご冥福を祈ります。(了)
