「100年の道のり」(104)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎粋人、小西得郎
 セ・リーグ初の優勝チーム、松竹ロビンスの監督は小西得郎である。プロ野球が2リーグ制を採用して衣替えした1950年(昭和25年)のことで、ぶっちぎりの戦いを見せた。指揮を執った小西は、実は監督の成り手がいなかったことからユニホームを着ただけだった。
 理由は「仕方がねえ」。
 前年、小西に歌舞伎界の六代目、尾上菊五郎から相談が持ち込まれた。「得ちゃん、松竹がプロ野球チームを持ちたい、と言って来たんだよ」。小西が「止しなよ、儲からないから。損ばっかりだぜ」と返事すると「損してもいいんだってことだよ」
 野球人と芸能界の不思議な会話である。小西は明大の野球部出身なのだが、東京・神楽坂で芸者置屋の旦那をしていた。そのときに芸能界の大物と付き合いができた。商売とは別に六代目は野球好きだったから小西とより親しくなった。
 それなら、と一肌脱いだ小西。狙いは大阪・船場の繊維問屋、田村駒のオーナー田村駒治郎が持つ大陽ロビンスに狙いを定めた。球団経営が思わしくなかったところを突いた。チーム名を太陽から大陽と「太」を「大」に変えたのは、貧打だったので「テン(点)を取る」とした人物だった。
 松竹の資本参加である。オーナーは田村駒がそのまま、球団名に松竹を付けた。選手集めは小西の役割で、強打者を獲得した。あとは監督である。田村駒は慶大OBにこだわった。夫人が慶応ファンだったからというエピソードがある。浜崎真二と水原茂を候補としたのだが、浜崎は阪急に行き、水原は巨人が「ウチの者に手を出すな」。
 春のキャンプに監督なしの異常状態。そこで動いたのが新加入の岩本義行で、明大の先輩である小西に「監督に」と泣きついた。粋人、江戸っ子の小西は「仕方がねえや」。田村駒のワンマンは有名で、それで候補者はさっさと逃げたそうである。
 芸者置屋の旦那がプロ野球の監督になって、歴史的な2リーグ初年度に優勝。ドラマもいいところである。映画になってもおかしくない話だろう。
 セ・リーグ優勝すると田村駒は有頂天になった。ところが小西と性分が合わない。「大阪商人」と「花のお江戸の粋人」。この対決である。パ・リーグ優勝の毎日オリオンズとの日本シリーズに負けると、それを材料に小西批判となった。小西は「ふざけんな」とタンカを切って辞めた。
 いっときの祝い酒だった。田村駒は間もなく球団を手放す。家業も含め財政的にお手上げとなったからである。小西はのち、解説者として一世を風靡する。解説の枕言葉「なんと申しましょうか…」で。この決めゼリフは流行語でもあった。

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