「ONの尽瘁(じんすい)」(38)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
待てば海路のー、と言う。それにならえば王巨人はどれだけ待てば、初優勝の「日和」にたどり着けるのだろう? これまでの艱難辛苦を思うと、そう思わないわけにいかない。でも、疑うべくもなく、その瞬間は近づいた。監督就任から4年、実に1432日目の悲願達成だった。
1987(昭62)年10月9日。優勝マジックを「1」とした巨人は移動日で広島入りしていた。同日夜、マジック対象の広島はナゴヤでの中日戦。敗れれば、巨人の優勝が決まる。ソワソワする気持ちを抑えるように、監督の王貞治はコーチ、球団関係者らと食事に出かけた。選手たちも宿舎ホテルに残る者はほとんどなく、大半が広島市内の繁華街に消えた。
前日8日のヤクルト戦を3-5で落とした巨人は、本拠地での優勝を決められなかった。翌シーズンにはプロ野球新時代の象徴といえる、全天候型の「東京ドーム」が誕生する運びであり、文字通りの後楽園ラストゲームだったのだが…。
1つの大きな節目で決めることはできなかったが、優勝はもう時間の問題。ある球団フロントはこう言って、「Xデー」を急く報道陣をいさめた。「そうあわてなさんなって。苦労した分、喜びは大きくなるんだから、じっくり構えましょうや!」
今の世のように、ネットやSNS、配信などで立ち所に試合結果がわかる時代ではない。宿舎に戻った選手、関係者は入れ替わり立ち替わり得点経過を知るべく、宿舎に詰める報道陣に「(優勝)決まりそう?」「どうなった?」などと問い掛けた。
そして、その瞬間は訪れた。2-0で中日が勝った! 巨人の4年ぶり、王にとって初の優勝! 「打倒巨人」を掲げる星野仙一が、皮肉にも王の〝アシスト〟に回ったのだから、球界は実に皮肉なものだ。
祝勝会は午後11時過ぎから、宿舎内の大広間を二間ぶち抜いて行われた。あいさつに立った王の声は、しだいにかすれ始める。85年に他界した父仕福にこの日の姿を見せられなかったことに触れたときだった。
「私個人にとってもこの4年間、いろんなことがあった…。亡くなった親父が見守ってくれたこともあるでしょうし…」
周囲への気配りを、決して忘れない律儀さで、最後は締めた。
「ファンのみなさんの後押しも大きかったと思いますし、とにかく自分の力だけではどうしようもできないことですから…。これは本当で、チームが一丸となって戦えたことと、そうやってフロント始め、すべての人々に後押ししてもらったことが、逆に、返って、1年目にすんなり勝っちゃうよりボクにとっては意味があったんじゃないか、と思います」
オーナーの正力亨、選手会長の原辰徳を伴っての鏡割りが済むと、クロマティの号令一下、ビール掛けが始まった。用意されたビール800本、シャンパン120本は、歓声、嬌声、怒声?の中、たちまち泡と消えた。
これまで、選手として、助監督として、何度も体験してきた優勝の味は知り尽くしたはずだった。それでも歴史と伝統を誇る「巨人監督」として感じるそれは、まるで違う感慨だったに違いない。
宴もたけなわを迎え、始まった胴上げ。室内だから高くは舞えない。天井までわずか2.5㍍ほどの高さを、王が、ヘッドコーチの国松彰が、原や中畑清、山倉和博らが相次いで舞った。
ビール掛けには担当記者の参加も許され、わたしも「初体験」した。ビールが目に浸みて開けていられない。服はビショビショ、アルコールのにおいが鼻について離れない。飲んでいなくても酔っ払ったような気分。髪の毛は乾くとパサパサに固まった。こんな姿で書いた原稿の思い出は、「一生もの」だろう。
決して肩入れするわけではないけれど、記者として初めて優勝原稿を書くことができた喜びは、監督に、選手に、素直に感謝したい気持ちだった。(続)
