『茂林寺球場・分福球場』 取材日2007年7月

◎魂を吹き込んだ千本ノック

寺の領地にあったグランド

江戸時代の「甲子夜話」(かっしやわ)にこんな話がある。
群馬県館林の茂林寺に守鶴という番僧がいて、汲めども汲めども湯が尽きない茶釜でお茶を振舞った。そのことから、福を分け与えると評判になって「分福茶釜」と名付けられた。あるとき、守鶴が居眠りをしていると、なんと手足から毛が生えてきた。守鶴はタヌキの化身だったのだ。化けの皮がばれたタヌキが慌てて逃げ出したのは言うまでもない。
 問題の茶釜は寺宝として現在も茂林寺に伝わっているという。寺の周辺には「タヌキ注意」の立看板が何本かあった。このあたりはタヌが今も没するのか。門前には土産物売り屋が何軒か軒を連ねていて、総門から赤門(山門)へと続く参道の両側には21体の大きなタヌキの石造が並んでいる。ここはタヌキの里らしい。
 第39代住職の古川正山(71)は怪訝(けげん)な表情で問い返した。
 「えっ、野球場? 茶釜の話じゃないの?」
 ―昔、野球場があったでしょう、茂林寺球場とか分福球場っていう。巨人軍が猛練習をしてチームに「魂」を叩き込んだという、あの伝説が聞きたくて…。当時の逸話は残っていませんか。
 「野球場は寺の所領地内にあったけどね。でも、巨人軍が練習したのは年1936年(昭和11)で、ちょうど私が生まれた年の出来事だったらしいからなあ、詳しい話は聞いていないねぇ」
 先代の住職ならともかく、正山和尚との話はそれ以上進まなかった。
 実は、この球場は私が調べた範囲では、公式戦が一度も行われていない。私の古戦場歩きの趣旨は過去に公式戦が行われた実績を持つ球場に限定して、そこで誰がどんなドラマを残したかを掘り起こそうというのだから、その狙いから外れている。しかし、巨人軍創設期の精神的な基礎をつくったともいえる伝説的な場所である。ぜひ消えた古戦場に加えておきたかった。

「鬼になる」と危機感を抱いた監督藤本

巨人がキャンプを張ったのは36年9月5日から13日までの9日間である。暦の上では初秋だが、当時も夏の陽ざしはたっぷり残っていただろう。
 一行は、藤本定義監督(松山商-早稲田大-東京鉄道管理局)内野手兼任の三原修助監督(脩、高松中-早稲田大-日本生命-全大阪)はじめ、投手陣に沢村栄治(京都商)ビクトル・スタルヒン(甲陽中-旭川中)青柴憲一(大谷中-立命館大-渡辺商店-東洋ベアリング)畑福俊英(横手中-専修大)捕手は中山武(享栄商)倉信雄(第一神港商-法政大-日満実業)内堀保(長崎商)、内野陣は永沢富士雄(函館商-函館オーシャンクラブ)白石敏男(勝巳、広陵中)津田四郎(岡山・関西中-奉天電電)田部武雄(広陵中-明治大-東京倶楽部-大日本東京野球倶楽部=36年の秋季公式戦前に退団)筒井修(松山商)前川八郎(神港中-国学院大-東京鉄道管理局)、外野手は中島治康(松本商-早稲田大-藤倉電線)林清光(享栄商-立命館大)伊藤健太郎(千葉中-東京鉄道管理局)山本栄一郎(島根商-関西大-芝浦協会-宝塚運動協会-尾上菊五郎劇団-大連実業-京城鉄道-高崎高陽クラブ-熊谷スタークラブ)、それにマネージャーを加えた総勢20人だった。
 このメンバーのうち、ただ一人健在だった前川は2010年3月16日、呼吸不全のため97歳で逝ってしまった。前川は09年の7月7日、巨人-横浜戦(東京ドーム)で背番号18の現役当時のユニフォームを身に着け始球式のマウンドに立った。そのとき、こう言ったものである。
 「後楽園は69年ぶり。先に冥土に行った先輩たちに自慢したい」
 さて、巨人軍は4日に館林駅からほど近い吉野家旅館に集結した。行商人や旅芸人たちの定宿で木造二階建てだった。その夜、藤本監督はミーティングの後で東鉄管理局から連れてきた前川と伊藤を監督室に呼んだ。
 「いいか、明日から鬼になる。文句を言う奴は即刻辞めてもらう。まず、お前たちから鍛えるから覚悟しておいてくれ」
 藤本は強い危機感を抱いていた。この年の2月、巨人軍は第2回米国遠征に行った。89日間に76試合を戦い42勝33敗1分けの戦績を残したが、帰国後は本場仕込みを鼻にかけてチーム内に安閑としたムードが蔓延していたのだ。後からチームを結成したタイガース(阪神)や名古屋(中日)に度々負けるなど精彩がない。
 このチームをどうやって建て直すか。精神面を叩き直すしかない。藤本監督は東鉄管理局時代のツテで同局が所有していた分福球場を鍛え直す場所に選んだ。でも、草や石コロだらけだが目的が精神鍛錬だから一向にかまわない。

血ヘドの練習から生まれた逆シングルの白石

 当時、東京には宿舎の近くに球場がなかった。秘策は、東鉄時代に一緒に猛練習をやった前川や若手を「しごく」ことでチームを引き締めようとしたのだ。
 起床朝7時、門限夜9時、消灯10時、絶対禁酒、夜8時からルールやセオリーの勉強、バットの素振り300本。
 藤本監督は沢村らの投手陣には何も指示しないで、内野にノックの雨を降らした。前川の本職は投手だが、俊足で打撃がよく、器用な持ち味をかわれて三塁も守った。鬼気迫る猛ノックは前川だけでなく新人の遊撃手白石も標的にした。藤本は罵声を浴びせるわけでもなく、照りつける太陽のもとでただひたすらノックバットを振るった。それがかえって不気味だった。
 09年12月に前川を訪ねると、高齢で耳が聴こえにくいから、と長男のひろ志(66)が会話を取り次いでくれた。
 「新人の白石さんは左の目が悪かったそうです。だから正面のゴロも体の右側で捕った。それが有名な“白石の逆シングル”で、藤本さんはまだ33歳で右に左に、よくいう千本ノックを打ち続けたそうです。しかも石コロ混じりでイレギュラーするから何度も顔でボールを受けたとか」
 白石は45年に2リーグ制施行で誕生した郷土の広島カープへ移った。そのころ中学生だった私は、打球をもぎ千切るように掴む白石の「逆シングル」を見て、そのグラブさばきの巧みさに驚いた。更に後に新聞記者としてカープを担当したとき、監督だった白石に猛練習のことを聞いた。
 「あまりにも猛烈なノックで夢遊病者みたいになってな。レフトの脇にあった松林の中でよくヘドを吐いたもんよ」
 当時は練習中の水分補給は厳禁。胃がカラッポで白石はおそらく血へドを吐いたのではなかろうか。今もその松林は残っている。ここで白石は苦悶したのか、私はしばらく立ちすくんだままでいた。
 野手陣の練習は殺気だっていたが、投手陣は「立ったまま見ていろ。動くな」と命じられた。しばらくすると感激家で責任感の強い沢村が外野を走り出す。スタルヒンたちも特訓を申し出た。日ごとにチームに一体感が出てきた。藤本の狙いは筋書き通りに運んだ。
 白石は疲れ切って帰りの電車では床にへたり込んでしまった。新人だからボールやバットを運ぶ用具係りをしなくてはいけない。そのうえ先輩の道具も担いだ。宿舎に帰ってもしばらくは玄関で座り込んだままだったという。
 その時、どこからか三味線の音が聞こえてきた。同宿していた旅回りの浪曲師一座が裏の物干し台でけいこをしているらしい。10歳に満たないであろう女の子が「何を何して何とやら~」と叫ぶ。「違う!」と父の平手打ちが飛ぶ。ああ、子供でもこれだけ厳しい稽古を積むのか。よし、オレも頑張ろう。気持ちを奮い立たせた。
 みんな白石に直接聞いた話だ。でも、その子供の名前を白石は覚えていなかった。前川に聞くと、「鈴木歌子」だという。ある夜、下駄をお尻の下に敷いて彼女たちの口演を聞いたそうだ。
 歌子のその後が気になった。関東の浪曲協会に問い合わせると、関西ではないか、という。で、関西の協会に連絡すると四国の興行師を紹介してくれた。至る所に電話して捜すと歌子は香川県の志度市にいた。  
 「巨人軍ですか、知りませんな。…すみません」
 有名な巴うの子の弟子で本名を「渡辺」とだけ言った。年齢は70歳台だろうか、師匠のことばかり口にして自分の話はしたがらなかった。女流浪曲師として後に人気者になったらしい。
 茂林寺での猛練習は今や知る人ぞ知る伝説である。参加した関係者も前川を最後にみん鬼籍に入った。だが、巨人の輝かしい伝統の土台には、あの小石まじりのグラウンドを舞台にした男たちの血へドの葛藤があった。いつまでも伝え残したいドラマである。(了)=取材日2007年7月

[メモ] 茂林寺球場(分福球場)。群馬県館林市堀工町1900ー9。バックネット裏は10段ほどコンクリートのスタンドがあり、外野は土盛りで板張りのフエンスだったらしい。両翼、中堅の広さは不明。茂林寺は曹洞宗で山号を清竜山。▼茂林寺球場で練習した巨人は直後の秋の大会で勝ち点2.5となり阪神と並んだため、12月に3試合制の優勝決定戦(州崎球場)を行い、2勝1敗で初優勝を飾った。これが伝統の巨人―阪神戦の始まり。前川は巨人を退団後、兵庫・滝川中で教鞭を執る傍ら後進の指導に当たり別所昭(毅彦)青田昇らを育てた。吉野屋旅館は今はなく跡地は駐車場になっている。(了)