第6回 大リーグ最大のピンチを救ったベーブ・ルース(菅谷 齊=共同通信)

▽ブラックソックス事件

そのスキャンダルはワールドシリーズが舞台だった。1919年、絶対有利と下馬評の高かったア・リーグのシカゴ・ホワイトソックスがナ・リーグのシンシナチ・レッズに敗れたところから、八百長のうわさが広まり、それが事実だったことが分かり、8選手が永久追放になった事件である。
 故意に負けたチームのニックネームを文字った“ブラックソックス事件”として球史に残る。後年、書物や映画などで取り上げられた。小説「エイトマン・アウト」は映画化されたし、ケビン・コスナー主演の「フィールド・オブ・ドリーム」はこの事件が題材で、日本でもヒットした。
 当時のホワイトソックスはもっとも強力なチームで、とりわけ打線の中心だったシューレス・ジョー・ジャクソンはタイ・カッブと並ぶ大スターとして人気があった。シリーズでは高打率を挙げながら、賭博師から主犯選手を通じて金を受け取ったと認定されて追放された。
 八百長の原因は給料の不満だった。エースのエディ・シコットは30勝すれば大幅アップを保証された。ところが29勝すると、オーナーのチャールズ・コミスキーは監督に「シコットを登板させるな」と命令し、給料アップを逃れた。
 そのころはびこっていたギャンブラーにそこを突かれたのである。シリーズの試合はおかしなプレーが多く、新聞社の評論家として記者席にいたクリスティ・マシューソンは「おかしな出来事」を指摘していた。

▽黒い話をぶっ飛ばしたルースの本塁打

ブラックソックス事件が起きたシーズンは、ベーブ・ルースにとってボストン・レッドソックスの最後のシーズンだった。この年、29本塁打を放って2年連続本塁打王の獲得。投手として9勝を挙げていた。二刀流から打者一本に絞る生き方を決めたシーズンでもあった。
 球界への非難が強まるなか、ルースは翌20年にニューヨーク・ヤンキースに移籍する。同じリーグのチームへ最強打者を譲るわけだから、相当な理由があったはずである。「興行師だったオーナーに大金が必要だった」とか「ルースが年俸アップを譲らなかった」などが伝わっているが、ルースの高給がネックだったというのが真相らしい。
 ルースはニューヨークに移ると、すぐ54本塁打を放ち、21年には59本塁打と打ちまくった。ファンは驚喜し、ヤンキースは帝国となった。そして裁判が行われているブラックソックス事件の暗闇を覆い、野球を国内最大の人気スポーツにしてしまった。大リーグのピンチを救ったのである。
 そのころの日本は学生野球が盛んで、プロ野球の話が正力松太郎によって取り上げられ始めたばかりだった。ルースの話題は日本にも伝わった。27年60本、28年54本と、ルースはけた外れの打撃を見せた。
 正力が声をかけた31年も本塁打王となったが、実はルースにとって12度目で最後のタイトルだった。翌年から本塁打数は41本、34本と下降線をたどり、来日した34年は22本という数字で、晩年を示していた。
 それでもルースはルースであり、その人気は絶大だった。正力がルースを呼ぶ発想は正しく、日本球界も待ち望んでいた。その来日が日本にプロ野球創設を後押ししたことは歴史が証明している。(続)