「100年の道のり」(22)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎北から南まで野球ブームのニッポン

 日本のプロ野球は本格的にスタートした。大日本東京野球倶楽部がアメリカ遠征に出掛けたころの全国の野球地図はどんな状態だったのだろうか。

▽全国区の大会となった夏と春の中等野球

 大日本東京野球倶楽部が発足した1934年(昭和9年)は、全国中等野球大会(高校選手権)が20回大会を終えた年だった。甲子園球場に「20回記念野球塔」が建立されている。
 15年(大正4年)に豊中球場で10代表が出場して始まった大会は、年々盛んになった。6年後には満州、朝鮮も予選に参加。24年の第10回大会から新設の甲子園球場で行われ、以後、ここが「高校野球のメッカ」となった。
 25年に試合経過がラジオ放送され、27年(昭和2年)には各地に実況が伝えられた。29年に甲子園球場にアルプススタンドが増設、翌年には予選参加校が500を超えた。
 夏の大会から10年後にスタートした選抜大会は「春はセンバツから」のキャッチフレーズで全国に浸透していった。24年の第1回は名古屋の八事球場で行われ、8校が出場した。甲子園球場での試合は翌年からである。
 選抜大会はさまざまなアイデアを生んだ。第2回大会から「個人賞」を設定。30年(昭和5年)に台湾が参加した。翌年から選手のユニホームに背番号が付いた。第9回大会には「ベーブ・ルース賞」が登場。華やかな大会がセンバツに特徴となった。
 夏と春の最初の優勝校は、夏が京都二中、春が高松商だった。野球熱は全国に広がり、少年たちの新たなスポーツとして人気を高め、のちの人材を生んだ。

▽大学リーグ、社会人都市対抗もスタート

 現在の東京六大学リーグが始まったのは17年(大正6年)のことである。このときは4大学だった、早稲田大、慶応大、明治大に続いて法政大が加わって行われ慶応大が優勝した。
 翌年から春、秋に行われ、21年秋に立教大が参加、5大学となった。東京大(帝国大)が加入して6大学となったのは25年春である。
 31年(昭和6年)に東都大学リーグが春から、関西六大学リーグは秋からそれぞれスタート。東都(1部)は専修大(優勝)、中央大、国学院大、日本大、東京農大の5校。関西は立命館大(優勝)、関西大、関西学院大、同志社大、京都大、神戸商大である。
 東都には一ツ橋商大、芝浦工業大、学習院大、東京教育大、東京工業大、駒沢大などが参加している。
 社会人野球の都市対抗は27年(昭和2年)に始まった。当時の最高峰の大会である。企業とクラブチームが混在していた。当時は「ノンプロ選手権」と称し、甲子園で活躍した10代選手や大学野球のスター選手がそろい、なかなかの人気だった。
 参加チームは日本だけでなく、大陸からの出場していた。ちなみに第1回大会の優勝は、大連満州倶楽部で全大阪に3-0で勝っている。第2回を制したのも大連実業団だった。
 このほか、台湾から台北、朝鮮から全京城が出場している。
 甲子園大会や都市対抗に外国のチームが参加したのを見ても分かるように、野球が日本に根付いたことを示していた。「ニッポン、野球ブーム」の状態だった。プロ野球が誕生するのは必然だったといえる。(続)