「100年の道のり」(75)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎戦後初優勝の消えた謎
 太平洋戦争が終わり、1946年(昭和21年)にプロ野球は8チームでリーグ戦を再スタートした。優勝したのは近畿グレートリングで、監督は山本一人(のち鶴岡)だった。
 この戦後初優勝、ほとんど知られていない出来事がポイントとなっていた。“ナゾ”といっていいだろう。表向きの成績は近畿65勝38敗2分け、勝率6割3分1厘。2位の巨人は64勝39敗2分け、勝率6割2分1厘。1ゲーム差の接戦だった。実は、近畿は1敗が1勝に変わるというオセロのような幸運があった。
 3強が競ったシーズンだったが、終盤に阪神が脱落し、近畿と巨人の2チームで大詰めを迎えた。巨人は3万円ホールドアウトの川上哲治が6月に復帰し、攻撃陣に厚みができた。11月3日の首位近畿戦に大勝して1ゲーム差に詰め寄ったものの、5日のセネタース戦に4-7で敗れて1ゲーム差のまま終わった。大下弘に20号2点本塁打を浴びたのが響いた。
 このころ戦地から戻って来た選手の所属問題があった。パシフィックが帰属違反したことが公になった。巨人に優先権のあるビクトル・スタルヒンと契約、また藤井勇と白石勝巳は阪神、巨人との関係があるにも関わらず連盟の通告を無視して試合に出場させたことで騒動になった。連盟はその選手が出場した5月20日から26日の間に行われた4試合を没収処分とした。パシフィックはその間、セネタースと阪急に敗戦、近畿と1勝1敗だった。
 裁定の結果、近畿戦の1勝が1敗となったため近畿に1勝が与えられ1ゲーム差で優勝となったのだった。実際の試合結果は近畿と巨人は同率でプレーオフとなるはずだった。これが“ナゾの答え”である。(続)