「ノンプロ魂」(10)-(中島 章隆=毎日)

第4回 名将の空白埋めた3年間・野村克也(上)
 プロ野球で戦後初の三冠王に輝くなど強打の捕手として活躍し、監督としてはヤクルトを3度日本一に導くなど4球団で歴代5位の1565勝を挙げた野村克也。長嶋茂雄、王貞治と並んで日本プロ野球を代表する「顔」と言ってもいい存在だが、アマチュア時代にスポットライトが当てられる機会は少ない。野村は豊富な著書を残しているが、そこにもアマチュア時代についての記述を探すのが困難なほどだ。だが、わずか3年間ではあるが、野村はアマチュア球界にも鮮烈な足跡を残している。
 野村が3球団目の監督をつとめた阪神を退団したのは2001年12月だ。3年連続最下位と、チーム成績が振るわなかったのは確かだが、それ以上に野村の足を引っ張ったのは、事業家である妻、沙知代の脱税事件だった。低迷していたヤクルトを強豪チームに育て上げた栄光は色あせ、だれもが「ノムさんの時代は終わった」と思った。野村本人もそう思ったに違いない。
 そんな野村に救いの手を差し伸べたのが社会人野球、シダックスのオーナーで、野村より1歳上の志太勤だ。
志太は日本シニアリトル野球協会の副会長時代に、沙知代がオーナーのシニアチーム「港東ムース」が日本一になったことが縁で、野村とは家族ぐるみの付き合いをしていた。
志太自身が高校球児で、根っからの野球好き。カラオケから仕出し弁当まで事業を拡大したシダックスは1991年に軟式野球部を作り、93年に硬式野球に衣替えして日本野球連盟に加盟。世界最強といわれたキューバから選手を招いてチームを強化、社会人野球の最高峰、都市対抗野球大会でも97年にベスト8、98年にベスト4と、強豪チームの仲間入りを果たした。
しかし、2001年、02年と連続して予選敗退し、都市対抗出場を逃した。志太の頭に、チーム再建の秘策があった。阪神退団から1年近くが経過した野村を、同じ野球界として放っておく手はない。プロで居場所を失った野村に「社会人野球で若い選手に野球を教えてくれないか」と要請することにした。
志太は野村夫妻を食事に誘い、2年連続で都市対抗出場を逃したチームをぼやいたうえで、こう水を向けた。「都市対抗に出られないなら、野球部をやっている意味はない。でもね、野村さんが来てくれるなら、オレは続けようと思っているんだよ」
未知の社会人野球の世界だ。返事に窮している野村だったが、背中を押したのは沙知代のひと言だった。「せっかく志太さんが言ってるんだから、アンタやんなさいよ」
02年10月11日、シダックスの「チームアドバイザー」に就任することが発表された。プロ野球監督経験者が社会人チームのアドバイザーになるのは野村が初めてだった。日本野球連盟会長の山本英一郎は「プロチームを指導するような気持でやってもらっては困るが、彼の持ついい面はアマ球界の発展につながると思う。規約上は何の問題もない」と歓迎する意向を示した。これを受け、シダックスは「ゼネラルマネジャー(GM)兼監督」への就任を要請し、野村はこれを受諾した。
同年11月6日、東京・新宿にあるシダックス本社で監督就任会見が開かれた。野村は「私が監督をやることで、プロとアマの垣根が低くなればいい。社会人野球が衰退すれば、プロ野球の土台も崩れる。微力ながら役に立ちたい」と抱負を語り、「やるからには全知全能を振り絞って都市対抗の優勝を目指したい」と語った。背番号は現役時代からゆかりの「19」。「たまたま空いていたから」と、照れくさそうに語った。ノンプロ野村監督の船出である。(了)