「ONの尽瘁(じんすい)」(10)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

「プロ野球に入った時から、巨人しかないという考えだった。頭ではトレードに従わねばならないとわかっていても、感情的に他球団のユニホームを着ることを納得できないんです」
1985(昭和60)年11月2日。近鉄へのトレード通告を拒否して、巨人を任意引退となった定岡正二の記者会見での言葉である。
現役への未練をグッと押し殺し、冷静に自ら進む道を選択した28歳の決断と受け取られても不思議ではないが、そのトレード拒否はまさに定岡の球団への抵抗であり、就任3年目となる86年こそV奪還を狙う指揮官・王貞治にとって軌道修正をしいられる大きな転換点になったことは言うまでもない。
定岡といえば、鹿児島実のエースとして74年夏の甲子園で大ブレーク。後に巨人のチームメートとなる原辰徳が所属する東海大相模(神奈川)との準々決勝は、今も語り草だ。定岡は延長15回を投げ抜き、チームの4強入りの原動力となった。端正な顔立ちと、それまでの野球選手のイメージとはかけ離れた?「モデル体形」で女子中高生から人気を集めた。注目の進路は同年のドラフト会議で巨人から1位指名され、その存在価値をますます高めた。
入団当初は、腰痛のため1軍登板まで時間を要したが、第1次長嶋政権下の80年にプロ初勝利。翌81年シーズンから先発ローテを任されプロ初の2ケタとなる11勝をマークした。ストレートの伸びはプロ平均レベルだったが、武器とするスライダーに活路を見いだし、82年にキャリアハイの15勝をマーク。江川卓、西本聖と並ぶ「巨投3本柱」を形成するに至った。
ところが、83年シーズンは腰痛に泣く。翌84年はリリーフに専念したが、この頃から右肘痛にも苦しめられるようになった。
監督が王になってからというもの、定岡は好調時の自分をアピールできずにいた。どちらかといえば、闘志をむき出しにするタイプではなく、何事にも淡々と振る舞いがちな世代だった定岡への、王からの信任度もいまひとつだったように思う。
もどかしい日々の中に身を置きながら、定岡は復帰への道を探った。迎えた85年シーズン。投手陣は槙原寬己、斎藤雅樹らが先発ローテに加わり、定岡はリリーフ専念に回った。自己最多の47試合に登板し、4勝3敗2S、防御率3.87と、まずまずの成績を残し、一定の身の置き場所は得た思いだった。ところが、チーム最終戦となった10月24日、後楽園での阪神戦で8点ビハインドの8回表1死一塁で登板。打者1人を併殺で片付けてマウンドを降りた。近鉄へのトレードが通告されたのは、その翌日の25日のことだった。
実働9年間のプロ野球人生。かつての甲子園のアイドルにしては寂しすぎる巨人でのラスト登板だった。「右肘の痛みは深刻で、1985年にはシーズン中から引退を考えていたほど悪化していた」。定岡は後年こう語ったが、わたしには、起用に対する不満が通告拒否の背景にあったと思えてならない。
ドラフト1位での入団から故障と闘いながらも日なたの球歴をたどって来た男にとって、リリーフとしてサバイバルの場を築こうとした矢先に命じられた敗戦処理は、あたかもそれが球団のもたらした移籍への「はなむけ」登板にも受け取れ、定岡には耐えがたい屈辱だったように思う。
王ら球団首脳はこの段階で定岡を来季の戦力外とみなし、保留者名簿から除外していた。このため巨人での居場所は既になく、定岡はトレードに従うか、嫌なら巨人のユニホームを脱ぐかの岐路に立たされた。
引退会見では球団への恨み、つらみはオブラートに包んだものの、選手としての唯一の権利である「現役引退」で最後の意地をみせたのだと、わたしは思う。
一選手の思わぬ抵抗で、巨人と近鉄のトレード話は紛糾した。交換要員が二転三転して最終的には巨人は外野手・淡口憲治と投手・山岡勝を放出。近鉄から捕手の有田修三を獲得する2対1のトレードを成立させたが、定岡放出で得られるはずだった中堅投手の獲得は宙に浮いた。現有投手スタッフは「マイナス2」となり痛手をこうむった。深く刻まれた王のみけんの3本のシワが、誤算の大きさを示した。ドラフトで、清原和博ではなく、即戦力を見込める桑田真澄を単独指名で是が非でも獲得しなければならなくなったチーム事情が、そこに潜んでいたのである。(続)