第1回 「ドジャース戦法」

▽川上は「ドジャースの戦法」にヒザをたたいた。

川上哲治が監督になって、「これこそオレがやりたい野球だ」と手本にした野球がある。ドジャースの捕手でコーチだったアル・カンパニスが書いた「ドジャースの戦法」の野球である。本の副題に「WAY TO PLAY BASEBALL」とある。
 筆者は個人名になっているが、訳者・内村裕之氏(後にプロ野球二代目のコミッショナー)の後書きによればド軍の何人かの共著であるという。
 この本は1960年(昭和35)から2年間にわたって週刊ベースボール(以下ベーマガ)に連載された後、57年に内村が訳して単行本になったが、川上はベーマガで読んだ時点で「これだ!」とヒザを叩いていた。
 川上は51年にサンフランシスコ・シールスのフランク・オドール監督の招待を受け、セ・リーグから杉下茂(中日)藤村富美男(阪神)小鶴誠(松竹)とともに米カリフォルニア州モデストのキャンプに派遣された。そのときに強く惹かれた野球がその本に分かりやすい形で書いてあったのだ。

▽アイク生原の協力

川上の前に水原茂や三原脩もベーマガや本を読んで注目し、参考にして採り入れていたが、川上と牧野茂はもっと積極的に採り入れた。それをチームに浸透させる手段として、よく「ドジャースの戦法」という言葉を口にした。
 川上はその本を読んで、「監督になったらこういう野球をやりたい。これこそ私がやりたい野球だ」と思っていたが、その思いが64年に監督になって向かったドジャースのキャンプ地ベロビーチで、ミーティングに招いたドジャースのコーチらの講演を聴いて確信となった。
 このときもその後のドジャースと巨人の間に立って、通訳から巨人選手の身の回りまですべての面倒をみたのがアイク生原昭宏氏だった。
 生原氏の肩書はドジャースの球団職員。早大の野球部出身でドジャースに野球の勉強に行って、ボール運びなど雑用の仕事をしていたのをオーナーのウォルター・オマリー会長に見込まれて球団職員に登用され、二代目のピーター・オマリー会長からいっそう信頼されて会長秘書になった人物である。
 アイクというのは生原のローマ字書きのIKUHARAの頭をとって、当時のアメリカ大統領のアイゼンハワーと同じ愛称で呼ばれるようになった。巨人のずっと後にベロビーチ・キャンプへ行った星野仙一監督下の中日も大いにお世話になった。
 中日と星野監督はその後、アイクを日本に招いて選手に講演をしてもらっている。アイクは戦前の鈴木惣太郞氏に次ぐ戦後の日米野球の架け橋になった人である。
 巨人は61年、63年とベロビーチへ行った後も、67年、71年、さらに長嶋茂雄監督の1年目の75年にもベロビーチへ行っている。私はその71年と75年のベロビー・チキャンプを取材した。
 私が川上巨人と一緒に行った最初のベロビーチでは、川上監督が心酔した「ドジャース野球」が着実に展開されていたはずである。「はずである」というのは、巨人と私たちが行った3月上旬は、まだ一軍選手のほとんどがベロビーチに来ておらず、2A、3Aの選手がいただけで、大リーガー中心の、本に書いてあるような「ドジャース野球」に基づく練習が行われていたのかどうか分からなかったからである。
 そのときも、もちろんアイク氏にはいろいろとお世話になった。

▽「ドジャースの戦法」とはなにか?

「ドジャースの戦法」をみるには、まずその本の目次を見ることから始まるだろう。目次を簡潔に見てみると――。
第一部「守備編」=7章・170㌻ 第二部「攻撃編」=四章・60㌻ 第三部「指揮編」= 四章・70㌻
本のページ数は全体でざっと320㌻であるが、そのうち第一部の守備編に約半分のページが割かれていて、そこに内野・外野の各ポジションの守り、連係プレーの基本フォーメイションが詳細に書かれている。
 それに引き換え、第二部の攻撃編と第三部の指揮編(監督・コーチ編)が第一部と同じ分量にしかなっていない。
 つまり「ドジャースの野球」とは、「守備が中心の野球」なのだ。
 監督になった川上は、まず第一にこの記述の順番と量に注目した。「いかに守りが大事であるか」ということだった。
 もちろん第三部の指揮編の「指揮命令系統の絶対性」にも意を強くしたが、なにはさておいてもまず「守り」である。
 注目した裏には伏線があった。
 川上は、水原茂監督のもとで助監督をしていたとき、身に染みて感じたことがあった。それは「試合に勝つには、相手に点をやらないことが最重要なポイントだ」ということだった。つまり「攻撃より固い守りをして負けないことが勝利への近道」ということである。
 この本にはそのことが明確に詳細に書いてあるのだった。
 川上は59年に監督になって、この野球をチームに植えつけたいと思いつつも、コーチ陣体制を大幅に入れ替えることなくシーズンに入った。しかし「毎年のように優勝できる強いチームになるためには守りの強いチームでなければならない」という思いが募るばかりだった。

▽アイツならきっとやってくれる

そこで、ではどうしたらいいか、と考えた結論が「餅屋は餅屋だ、守りの専門家を呼ぶことだ」だった。では誰がいいのか、と考えているうちにある男の存在を思い浮かべ、「そうだ、アイツだ。大口をたたいているのだから、あの男ならやれるだろう」とヒザをたたいた。
 その男とは、元中日の遊撃手だった牧野茂である。
 牧野はそのころ、前年に中日のコーチを辞めて東京のデイリースポーツの野球評論家をしていたが、川上監督1年目の巨人について、「野球は打つ、投げるだけではない。走るもあれば守りもある。ことに守りが重要だ。しかしいまの川上巨人の野球は、この守りがなっていない。こういうふうにしたらどうなのだろうか」などと遠慮なく書いていた。
 同紙は神戸に本社があって、阪神サイドに立つ新聞であるだけに、巨人に対して普段から厳しい論調が多かったが、川上には、「これだけ堂々と巨人を貶すのだから、牧野という男は、きっと守備についていっぱい勉強しているのに違いない。またこうしたらどうだ、といい助言もしてくれている」と思えたのだった。
 そこで川上は、監督1年目の6月、山崎マネジャーに牧野に電話をかけさせた。牧野は「川上監督が会いたがっている」という巨人マネジャーからの電話にびっくりした。
 牧野は世田谷区の奥沢に住んでいる川上監督と同じガソリンスタンドを利用している関係から、「あんたもここなの?」と川上に声をかけられたことがあったが、親密という間柄ではなかったので、会いたがっていると聞いて「きっと、なぜあんなに悪口ばかりか書くのだ」と叱られるのだろうと思った。
 叱られるのなら急ぐことはないだろう、と返事を渋っていると、マネジャーからまた電話がきた。そこで覚悟を決めて川上監督と会うことにした。
 緊張して会った川上監督はニコニコして開口一番、意外にも、「キミ、巨人へ来てくれないか」という誘いの言葉を吐いたではないか。
 びっくりして黙っていると、川上監督は訥々と続けた。
 「打つ方は私もわかるし、長嶋がいるからなんとかなるだろう。しかし守りがいまひとつなんだ。しかも守備コーチをやってもらっている広岡(達朗)が、コーチ兼任を辞めたい、現役の先が何年もないから選手一本でやらせてくれ、というんだ。そこでキミに、広岡に代わってその面の指導をしてもらいたいのだよ」

▽昼は多摩川の二軍、夜は一軍の試合観戦

この川上監督の牧野招請には、もう一つの狙いがあった。「広岡問題の決着」である。
 遊撃手の広岡は川上より12歳年下の早大出身で、熊本工出の川上監督に比べて名門都会チーム出身。長身で端正な顔で雰囲気を持つ選手だった。読売新聞の正力松太郎社主の受けもよく、やがては監督に、と報道陣も予測していた人材だった。早くいえば「目の上のたんこぶ」だった。遊撃手一本を望むというのは好都合だった。望みを受け入れても、いずれ現役引退になる、という思いである。
 広岡は広岡で、「早晩川上は失敗する。そうすればオレの出番だ。泥舟のコーチ陣から出ておこう」と考えたようだった。
 しかし牧野にそんな巨人内部と2人の胸の内などわかるはずもない。ただひたすら巨人からの誘いに、「そんな大それたことを。私に巨人のコーチになる資格などありません」と断った。しかし川上監督の要請はその後も続いた。
 そこで牧野は、明大―中日時代の恩師であり先輩の天知俊一氏に相談したり、後援者だった中日新聞の論説委員の小山武夫氏(のち球団社長)に相談したりした。2人とも「意気に感じてやったらどうだ」と巨人入りを推した。その結果、「二軍の若い人の面倒をみる手助けなら、及ばずながらさせて下さい」と二軍コーチとして入団した。それが61年7月25日。牧野が満32歳になる前日だった。
 牧野は川上監督の指示に従って昼間は二軍の多摩川グラウンド、夜は一軍が試合する球場に駆けつけて練習の手伝いをして、その年の日本シリーズから一軍ベンチにはいることになったのだったが、それより時間を割いたのが「ドジャースの戦法」を熟読玩味して暗記することだった。選手時代に読んではいて、それを参考にして評論をやってはいたが、この春の61年に巨人はベロビーチへ行っているが自分は行っていない。それなのに「これをチームに植えつけるのだ」と請われて入団する以上、誰にも負けないくらい知っていなければならないのだ。
 この年、巨人は日本一になっている。牧野はシーズン中はスタンドで試合を見たが、日本シリーズはベンチに入るように言われた。
 川上監督があえて外様のコーチを入れた大きな目的はまだ他にもあった。(了)