「インタビュー」山本泰④-(聞き手・菅谷 齊=共同通信)

◎後楽園のヒーローを経て甲子園へ
 山本は大学時代、神宮球場でプレー。その後、社会人選手として後楽園球場で活躍する。そしてPL学園の監督となり、あの甲子園球場に帰って行く。
▽後輩は法大三羽烏
-法政大時代はいい選手がそろっていました。
山 本「有名な選手が大勢いましたよ」
-とりわけ1年下にいましたね。
山 本「田渕幸一、山本浩二、富田勝ですね」
-いわゆる法大三羽烏…。
山 本「みんなドラフト1位でプロ入りしています(田渕阪神、山本広島、富田南海)。」
-黄金時代ですね。
山 本「彼らの1年下には山中正竹、江本孟紀らの投手がいました。山中は通算48勝の東京六大学最多勝の記録をつくりましたよ」
-夢のようなメンバーですね。
山 本「こっちの影が薄くなるばかり(笑)」
▽4番打者として都市対抗優勝
-社会人野球時代は活躍している…。
山 本「日本楽器でプレーしていたんですが、他チームの補強選手として都市対抗には何回か出ていますよ」
-補強選手の制度は社会人特有の制度ですね。
山 本「そうですね。予選で戦ったチームの戦力となるわけです」
-3年連続で都市対抗に出場していますね。
山 本「いずれも大昭和製紙の補強選手でした」
-1970年のとき、優勝…。
山 本「大昭和製紙の2回目の優勝でした。私は4番を打っていましてね。思い出に残るシーズンでした」
-ところが間もなく会社が変わっていますね。
山 本「日本楽器の4年目になると、急に使われなくなったんですよ。まだプレーに自信があったころですから、不思議な感じがしました。監督に嫌われたんですかね(笑)」
▽そしてPL学園からオファー
-日拓観光ですね。それからしばらくしてPL学園の監督に就任している。
山 本「まさか高校野球の監督になるとは思っていませんでした」
 学生野球のメッカ神宮、プロ野球のメッカ後楽園の土を踏み、高校野球の聖地に挑んで行くことになった。野球人としては貴重な経験を積むことになる。(続)