「評伝」森下整鎮(もりした・のぶやす)

ジョー・スタンカを追うように南海で同僚だった森下整鎮が2018年10月26日に85歳で亡くなった。彼もまた日本シリーズ8度の常連で、スタンカが投げ内野手の森下が守った。
 1950年代から60年代、鶴岡一人監督に率いられた南海は抜け目のない独特のチームで、「がめつい野球」と呼ばれた。大阪人のド根性を表す言葉である。「グラウンドにゼニが落ちている」とは鶴岡の有名なプロを示す言葉だが、森下はその鶴岡野球を象徴する選手だった。
 原点は少年時代にあった。家庭が貧しく、家計を助けるため高校を中退して52年(昭和27年)にプロの世界に入った。少ない給料から両親に仕送りを続けた。ファイトで二塁のレギュラーを取った。日焼けした真っ黒い顔でいつも大声を出し、チームを鼓舞した。
 アキレス腱を3度切断している。その都度這い上がってきた。夫人の付き添いで砂浜を歩き、走り、そうしてベンチに戻ってきたという伝説を持つ。
 振り返ると、災難を何度も乗り越え、壮絶な野球人生を送ってきた。福岡・八幡高時代、甲子園のセンバツ大会で自らの失策で逆転負け。泣きじゃくってグラウンドを去ったのが苦難の始まりだった。
 南海一筋15年間。タイトルは盗塁王1度だけ。通算打率は2割5分6厘。ただシーズン最多死球4度。これが森下の生きざまを示す証である。成績をはるかにしのぐファンの支持があった。
 正弘-正夫-整鎮と登録名を変えた。そのたびに新たな道に挑んでいったのだろう。昭和丸出しの野球人だった。(菅谷 齊=共同通信)