第11回 夢の実現、ルースが日本に上陸(菅谷 齊=共同通信)

▽特別列車、ゴールデンロード

エンプレス・オブ・ジャパン号が横浜に着いたのは1934年(昭和9)11月2日の朝である。米国ワシントン州シアトルからおよそ2週間の船旅だった。
 この大型客船は、あのベーブ・ルースを運んできた。
 「夢が実現のものとなった…」
 チームを招いた日米野球の主催者たちは感無量の面持ちで、天下のホームラン王を迎えた。
 港の大勢のファンから抜け出し、鉄道の横浜駅に向かった。そこには東京までの特別列車が待ち構えていた。まさにVIP待遇だった。午後1時過ぎに出発し、1時間ちょっとで東京駅に着いた。
 もちろん、ここにもファンが詰めかけていた。
 「ようこそ、ニッポンへ」
 「ありがとう、よろしく」
 出迎えた正力松太郎とコニー・マック総監督が握手を交わした。ルース招へいに執念を燃やした正力にとって、この瞬間は人生のハイライトだったことだろう。
 ルースはご機嫌だった。
 「すごいな、この出迎えは!」
 到着ホームから車の待つ駅前広場まで20分以上かかったという。普段なら5分もあれば十分な距離だったことを思うと、ファンの大歓迎だったことが想像できる。
 和田倉門に出て二重橋、馬場先門、京橋、銀座、田村町とゴールデンロードを通って日比谷の帝国ホテルに入った。悠に1時間を超えるお披露目パレードだった。

▽そのとき、世紀の本塁打王は40歳目前だった

ルースは何歳だったのか。1895年2月6日生まれだから、来日したときは39歳9ヶ月。年が明ければ40歳になる年齢だった。
 当時、それは問題にされなかった。
 ベーブ・ルースが来るということが最優先の目的であって、その時点での成績などは二の次だった。事業成功に必要なのは名前、というわけである。
 冷静になって振り返ってみると、日本に来たころのルースは、寄る年波と戦っていた。
 「歳を取るのが怖い…」
 ルースはそう言っていたときである。
 この年のシーズンのルースは、125試合に出場し、打率2割8分8厘、22本塁打、84打点。売り物だった本塁打は、32年41本から33年34本と減り、2年前の半分近くまで落ち、パワーの衰えははっきりしていた。
 なによりも力の衰えを実感したのは、同僚でありライバルだったルー・ゲーリッグに完全に抜かれたことだった。
 最盛期は大統領をしのぐ8万㌦の年俸をもらっていたが、34年は3万5000㌦にまで下がっていた。スター優遇措置などなかった。数字がすべての世界を示していた。
 「もう、ホームランを打てるルースではなくなっていた」
 のちに本音を吐露している。
 ファンはしかし、ルースに本塁打を求めた。それがまたルースにとって辛い重荷だったことは理解できる。
 そんなときだっただけに、日本での歓迎、待遇はいっときのオアシスだったことだろう。
 日米野球では、ルースはそんな沈んだ姿は一切見せず、トップ大リーガーとしてのバッティングを披露した。当時、日本のファンがルースの心の内を知る由もなかった。年齢さえも。(続)

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