第4回 球史最大の遺恨試合(5)完(菅谷 齊=共同通信)
機動隊が出動するという異常な事態を生んだロッテ・オリオンズと太平洋ライオンズの戦い。この遺恨試合は2年に渡るまれにみる出来事だった。ロッテはこれを経て日本一になったが、太平洋はやがて球界から去って行くことになる。
▽装甲車で球場から宿舎へ
「球場の名前が泣くぞ…」
太平洋のホームグラウンドである平和台球場の関係者は、その光景を見て口走った。
この球場はかつて、西鉄ライオンズが球界の盟主、巨人をたたいて日本シリーズ3連覇を果たした栄光の場所である。そこに警察が来なければ収拾がつかない有様に涙を浮かべて悔しがった。誇りを踏みじみられた、と。
「金田、出て来んか-」
試合に敗れた太平洋のファンの野次がまるで合図のように、スタンドから罵声とビン、缶などが投げ込まれた。ロッテの選手たちはマウンド付近で一時待機した後、ベンチに戻っても立ち止まらざるをえなかった。
福岡県警の装甲車が球場の選手出口に横付けされた。
ロッテの選手たちは、音を潜めて出口から車に乗った。勝者が笑顔でグラウンドを出るはずが、逃げるように乗り込んだのである。
エンジンの音がする。出発。気が付いたファンが追う。石が飛ぶ。
「どうだ、見たか」
子供ファンが石を投げ、叫んだ。
「お子さんがああいう行動に出たのを見たときは、さすがに胸が痛みましたね。大人の選手がこんなことをしていいのか、プロ野球はこれでいいのか、と頭を抱えたことを覚えています」
ロッテの試合責任者だった球団代表が後年、そう述懐した。
装甲車はロッテ選手を宿舎に送り届けた。ここで遺恨試合は落着した。5月のまだ冷え冷えとした夜だった。
▽ロッテは日本一に、太平洋は身売りへ
ロッテは太平洋と優勝争いをした前期を2位とした後、後期に優勝。前期優勝の阪急とのリーグ優勝決定シリーズにも勝ち、中日との日本シリーズにも勝ち、日本一に上り詰めた。
ロッテは当時、4番のジョージ・アルトマンを病気で欠き、加えて主力が相次いで故障するという悲惨な状態にあった。これを克服しての日本チャンピオンは称賛に値した。
この勝利の数々を振り返ってみると、ロッテは苦難の道を歩んだ。
後期優勝は、マジックナンバー1から3連続シャットアウト負け。マジックナンバーが消えた後、ライバルが引き分けのため、なんとか1位となるという薄氷の末だった。
ロッテの金田正一監督は、後期優勝を競った阪急とも一触即発の事態に絡んだ。
「近めに投げろ」
この金田の声にベースコーチに立っていた阪急の上田利治監督が反応した。
「危ないだろ、何を言っているんだ」
金田がベンチを出ると、上田が向かっていく。両軍ベンチから選手が飛び出し、大騒ぎになった。
3連続シャットアウト負けは近鉄、南海、そして阪急が相手だった。スコアはすべて0-1。阪急戦は本拠地の仙台である。
その阪急に敗れ、宿舎に戻った。南海が敗戦または引き分けなら優勝となる。その南海は延長に入り、引き分けに。金田は宿舎前の道路で胴上げされた。
遺恨試合で荒れた1974年は球界の転換期だった。巨人が中日に敗れ、10連覇を阻止され、長嶋茂雄が現役を退いた。新しい時代に向かった。
一方、太平洋は77年にクラウンライターに経営権を譲り、2年後の79年に身売りし西武ライオンズとなった。これは福岡からプロ野球が消えたことを意味した。
福岡を再びプロ野球チームが本拠地としたのは10年後の89年。南海からダイエーとなったときである。
太平洋はわずか4シーズンの短期間で優勝なし。ただ球界裏面史ではこの遺恨試合が存在感を示している。その舞台となった平和台球場はもうない。(了)