山崎裕之インタビュー(3)―(露久保孝一=産経)

▽挫折から孤独の脱出行

―プロに入り1年経験した。その後はどうでした?
山 崎「2年目に顎を骨折して、試合に出られなくなった。それから、体の復調を目指すとともに、いいプレーをしたい、そのために何をしたらいいのかと考えた。修行の時期に入ったような・・・」
―その期間は長かったですか?
山 崎「体が回復したあとは、無我夢中で野球をやった。しかし、思うような打撃ができず、野球に自信が持てるまでには時間がかかった。3年目までは挫折の繰り返しだった」
―どんなことがあったのか。
山 崎「試合で、ここ一番のチャンスに打てなかった時や手痛いエラーをした時などは、悔しくてじっとしていられなかった。ある時は、自分のエラーでチームが負け、旅館でしょげかえっている姿を当時の監督、濃人渉(のうにん・わたる)さんに見られた。監督に呼ばれて、“そんなことは気にするな”と言われた。うれしい言葉だった」
―その不安定な時期に、何か気分転換を図ろうとか、そんなことは?
山 崎「プロに入って2年間は、自宅の上尾からフランチャイズの(荒川区南千住にあった)東京スタジアムへ通っていたが、3年目に車を買って自分で運転して行動した。その車で、ちょっと遠くへ行こうとした」
―どこへ行ったのですか?
山 崎「なんとなく、海の方へと思い立った。東京スタジアムから車で(神奈川県藤沢市の)江の島へ突っ走った」。
―江の島まで? 都心から55キロくらいある。
山 崎「とにかく江の島へ、と向かったので、どこを通ったのかどのくらいかかったのか覚えていない」
-夜の江の島は、暗い海の中だった? 
山 崎「江の島ヨットハーバーに行った。浜辺から海中を見ると、きらきら光る小さな魚がいた。海は、沖の大海原に続くでっかい太平洋である。そんな雄大な光景を見ているうちに、日本という小さな国で、小さなことにこだわってくよくよするな、もっと大きな気持ちを持て、と天から声が降ってくるような感じにとらわれた」
―江の島は、独特の雰囲気がある。私も何度も行っている。
山 崎「僕はその頃、江の島へ車で2度行った。帰りの車の中では、だいぶすっきりした気分になった」
―江の島で気分転換したあと、野球の方でいい影響があらわれました?
山 崎「そう簡単にはいかない。でも、野球に集中できるようになった」

▽野球の面白さがわかってきた

―無我夢中でやってきた3年が過ぎたあと、どう変わったか?
山 崎「4年目から、自分のプレーに自信が持てるようになった」
―その気持ちはそれまでなかったこと?
山 崎「そうだね。野球の面白さが分かったことは非常に大きい。自分から進んでプレーできるようになった。打席に立つ時は、相手投手の投げる球、相手の守備位置を見て自分の打撃をどうするか、そんなことを自分の目で確かめられるようになった。自分が守っている時は、試合の流れを見ながらプレーできるようになった」
―自分とチームと同時に考えてプレーする・・・。
山 崎「それが野球の本筋。4年目から野球を本格的にスタートした感じだった」
プロ4年目の1968年に遊撃手のレギュラーをとる。翌69年、チーム名がロッテに変わり“ロッテ1年生”として山崎は二塁手に回り、打率3割1厘をマークした。この年、初のベストナインに選ばれ71年まで3年連続で受賞。計5回ベストナインに選ばれている。ダイヤモンドグラブ賞は3回獲得した。(続)