新企画 「長嶋茂雄と私」-(高田実彦=東京中日スポーツ)

-序にかえて-

長嶋茂雄は奥さんの故・亜希子さんと、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで知り合った。報知新聞の故・瀬古正春記者(ペンネーム新宮正春)が行った「ON五輪を行く」の企画で、いろいろな競技の観戦記を書いた。
 そのとき報知新聞社がつけた通訳だった西村亜希子さんに、長嶋が“一目ぼれ”し、帰りの車の中で瀬古記者に「彼女の連絡先を教えてくれ」とせがんで教えてもらい、自分で電話して自宅に招待した。
 当時、長嶋の自宅は上北沢にあったが、当日は朝早く起きて家の前の道を掃除したそうだ(瀬古さんの言)。
 一方、私も東京五輪の臨時通訳をしていた明子と知り合って猛アタック、10月24日のニチボウバレーが世界一になるテレビ中継を立川のレストランで一緒に見ることに成功したのをきっかけに結婚することになった。
 亜希子と明子。字は違うが、同じ「アキ子」なのである。結果論ではあるが、同学年の長嶋と私は「なにかの糸」でつながっていたのだ、と勝手に思っている。

「長嶋茂雄と私」(1)

長嶋と初めて会ったのは1969年(昭和44年)の自主トレの日、1月6日だった。伊豆・大仁ホテルで、球界で初めて長嶋が行った「自主トレ」を取材に行ったときだった。巨人担当の1年目である。
 富士山が臨める同ホテルの、その名も「富士の間」で、床の間には横山大観の富士山の額が飾ってあった。捕手の淡河弘が同行していた。
 名刺を出して名乗った。長嶋は胡坐から正座になって
 「長嶋です」
 と言った。球界で挨拶して名前を返してくれたスターは、この長嶋と広岡達朗だけである。
 長嶋と私は同じ年で、立教時代に神宮球場でプレーを見たことがある、などと話が進んだ。お陰でとてもいい原稿が書けたと思う。
 その時の話の内容は、「耕して肥料をまいて、それから種をまくんです」というようなもので、長嶋を言い表す呼び名の一つとして聞いていた“うっかり長さん”の感じはまるでなかった。
 この自主トレに何冊もの本を持ち込んでいた。淡河が荷物を整理しているときに、私は横目で見ながら本のタイトルを必死に暗記したものである。例えば… 「雪男を探す」(谷口正彦)「スパルタ教育」(高橋達夫)「経営の盲点」(三鬼陽之助)、それに川上監督の夫人が勧めていた「実践倫理常識講座」上下などだった。(続)