ジョー・ルーツの意識改革(岡田 忠=朝日新聞)

「真っ赤に染まったマツダスタジアム」(提供=広島東洋カープ)

 今や見慣れた風景だが広島東洋カープの本拠球場は試合のたびに球場全体が赤色に染まる。そればかりか、カープがビジターの場合でも球場の半分近くが赤い集団で埋まるのだから、異常ともいえる現象だ。

▽こりゃ小学校の運動会だ

フランチャイズ制が根付いているメジャーリーグでは到底見られない光景だろう。当然、熱狂的な赤ヘルフアンが多いからではあるが、それだけでは答えにならない。この現象の火種は42年前に遡る。1975年、私は広島支局勤務で官庁の出先機関をまわりながら広島カープの担当だった。毎年のことだが2月になるとスプリングキャンプの取材に宮崎県日南市の天福球場に出掛ける。
 キャンプ初日、球場に足を踏み入れて驚いた。グラウンドにいる選手たちが誰も赤い帽子をかぶっているではないか。「こりゃ小学校の運動会だ!」。選手の中には「チンドン屋みたい」と照れる者もいた。その訳は追々分かったのだが、帽子を被った当事者の一人、衣笠祥雄さんはこう回顧する。
 「キャンプを前にしたミーティングで大柄なルーツ監督が赤い帽子を被って現れてね。『今年からこれでいく。赤は燃える色だ、いいか闘志を全面に出してプレーしろ。私たちは優勝するんだ』といきなり大声で吠えた。えっ、このおっさん何を言い出したんや、と思ったね」
 そして、こうも言ったという。「カープに25年の球団史があるのは知っている。だが、1度でも優勝したかい? そんな過去は捨ててしまえ。今年から新しい球団史を作るんだ。君たちは優勝できる」

▽広島を活性化する使命があるんだ

みんなキョトンとしていたそうだ。無理もない。カープは前年最下位、3位は68年のただ1度だけ、他は全部Bクラスである。しかし、ルーツは事あるごとに「優勝」を口にした。この年、チームの司令塔として日本ハムから闘将・大下剛史を獲得、主将に据えた。
 その大下さんが言う。「消極的なプレーには厳しかったね。ルーツの言葉で印象に残っているのは『君たち選手には広島の地域社会を活性化させる社会的な使命がある』というフレーズ。熱い人でしたよ」。焼野原に生まれ市民球団として育ってきたカープの生い立ち示唆する檄だ。
 赤い色はルーツがコーチとして所属した大リーグのインディアンスのチームカラーである。ルーツのアイデアではストッキングやアンダーシャツ、胸のロゴマークも赤にする予定だったが、予算と時間の関係で2年後からとなった。従来の濃紺のヘルメットに赤いスプレーを吹きかけて間に合わせた選手もいた。

▽もう指揮は執らない

残念だったのはルーツ政権があまりにも短命に終わったことである。
 75年4月27日の阪神戦(甲子園)ダブルヘッターの第1試合で事件は起きた。投手の佐伯和司が掛布雅之に投げた球をボールと判定されたことで激昂したルーツは審判に暴行したとして退場処分になったのだ。ルーツはその退場も拒否した。
 このトラブルに重松良典球団代表が説得に入ると、ルーツはそれにも異議を唱えた。第2試合の前、選手を集めてこう言った。「今後の指揮は執らない。球団は新しい監督を探すだろう」。さっさと球場を去った。「契約でグラウンドの全権を与えられていたにもかかわらず代表が出てきて説得を行ったのは権限の侵害だ」と言うのが監督ルーツの主張だ。ルーツ監督の戦績は15試合で6勝8敗1分けだった。

▽「赤色」は生きている

カープは野崎泰一代理監督から古葉竹識監督とつなぎ初優勝するのだが、赤ヘルを全国的に決定づけたのはこの年のオールスター戦である。甲子園球場での第1戦で3番山本浩二と6番衣笠祥雄が連続打席アベック本塁打したのだ。外木場義郎の剛腕も唸った。この広島勢の活躍を「赤ヘル軍団」と誰かが命名したものだ。
 もし、ルーツが監督を続けていたら…今以上に球場は燃えていただろうか。想像するだけで楽しいが、意識を高める赤は確かに根付いている。ルーツは帰国後、少年たちに野球を教えていたが、脳卒中と糖尿病を患い2008年10月20日に死去した。その年はカープが旧広島市民球場を本拠にした最期の年だった。(了)