ドジャース戦法を熟知した山本泰①

◎法政二高に学び、PL学園を初優勝に導いた名将(1)

-ドジャース戦法を熟知した山本泰-

 高校野球の甲子園で一時代を築いたことで知られる大阪のPL学園。その基礎をつくったのが山本泰。旧姓の鶴岡といえば、プロ野球の大監督として球史に残る鶴岡一人氏の長男と思い出すファンは多い。戦後最強といわれた法政二高で習得したドジャース戦法を指導者としての柱とした。法政大監督としても東京六大学リーグでも采配を振るった。プロ野球と大リーグの球団スカウトを務めるなど、野球人としての経歴は多彩である。

山本泰(旧姓・鶴岡)「略歴」
 1945年、山口県生まれ。父親の鶴岡一人がプロ野球南海ホークス(本拠地大阪)の監督だったことから大阪で育った。61年、神奈川・法政二高に進学。1年生で夏の甲子園に出場し、3年生で主将。64年から法政大に進み、4年生で主将。南海からドラフト指名されたが、日本楽器に入社し、都市対抗に出場。74年にPL学園の監督に就任、78年夏に初の全国優勝。甲子園出場は夏3回、春2回。大阪体育大付高監督を経て90年から法政大監督。その後、近鉄バファローズ、大リーグのシアトル・マリナーズのスカウトを務めた。

▽中学時代からすごかった高田繁
-PL学園の硬式野球部が消えてしまった…。
 山本「残念、としかいいようがない」
-OBとして何か動きをしましたか。
 山本「名のあるOBに、お前たちが再建しろ、と言いましたが、うまくいかなまったようです」
-PL学園の話は後に譲りましょう。そこで詳しく聞きます。育ったのは大阪ですよね。
 山本「オヤジが南海ホークスの監督でしたからね」
-野球を始めたのは…。
 山本「中学(大阪市立阪南中学校)に入学してからです。小学校のころは遊びでしたから」
-強い学校だった?
 山本「いや、弱かったですね。勉強にうるさかった学校でしたから」
-野球王国の大阪だけに強い中学はあったでしょうね。
 山本「同期の高田繁(浪商-明大-巨人)がいた中学は強かった。1年生の私が投げた試合で12点ぐらい取られましたよ。高田はそのころからずば抜けてていた」
( 高田繁は浪商1年生で夏に全国優勝。明大からドラフト1位で巨人入団し、新人王に選ばれ、左翼手として9連覇に貢献。現役引退後は日本ハム、ヤクルトで監督。日本ハム、DeNA でGMなどを歴任)
-当時は軟式ボール?
 山本「まだ硬式はなかった。当時の大阪は軟式大会と準硬式大会があり、私の中学は準硬式でした」
 (準硬式ボールは硬式と軟式の中間にあたるもので、硬式の表面がゴムで包んであるボール。打球が不規則にバウンドする特徴がある)

▽法政二高って、どこにあるんですか?

-その後の成績は…。
 山本「2年生からエースで4番。3年生のときに府大会で優勝しました」
-打撃は…。
 山本「監督からは、とにかく走っておれ、といわれただけで、打つ方は特に練習した記憶はないんですよ」
-足の方は…。
 山本「小学校のころは遅かった。ところが中学で走ったとき陸上部のエースに次ぐ2位になった。野球部での走る練習の成果だったんだと思いますね」
-大阪では注目の選手だったのでは…。
 山本「ええ、高校から声がかかりました。その一つに有名進学校がありました。驚きましたよ」
-同級生にいい選手がいた、と聞いていますが…。
 山本「いました。主力の二人は地元の明星高に行って甲子園夏に優勝しています。あと一人は早稲田大学でレギュラーになりました」
-ところが進学は神奈川県の法政二高。そのいきさつは…。
 山本「私は平安高(京都府)に行きたかったんですよ。よく甲子園の選抜大会に出ていましたからね」
-なのに、高校進学は法政二高。本人が思いもしなかった結果となった…。
 山本「オヤジから、高校で野球をやりたいのか、と聞かれたんです。はい、と答えたら、それなら法政二高に行け、と。びっくりしました。それで、法政二高ってどんな学校で、どこにあるんですか、と尋ねたら、バカモンって言われましてね」
 (当時の法政二高は60年夏に全国制覇、翌年の選抜大会にも優勝し、夏春連覇を達成し、戦後最強と呼ばれた強豪。田丸仁監督が大リーグのドジャース戦法を教え込んだことで知られた)
 山本はここから本格的に野球人としての歩みを始める。(続)