「評伝」野村克也

「考える月見草」(8)
◎お手本は中西太か山内一弘か
野村は、プロ入り後2年間はほとんどニ軍暮らしだった。上(一軍)を見れば、西鉄ライオンズに大下弘、中西太、大毎オリオンズには田宮謙次郎、榎本喜八、山内一弘という強打者がいて、野村の目にはみな天才に見えた。
1956(昭和31)年、一軍に上がった野村が見て驚いたのは、中西のフリーバッティングだった。重いバットを持ち、ピンポン球を打っているかのように軽々と遠く飛ばす。山内といえば、シュート打ちの名人で、内角球を左翼へ運びファールにならずスタンドに入れた。
当時は打撃をちゃんと教えてくれるコーチはいなかったので、選手は自分で工夫して打力アップするしかなかった。野村がまず、中西と山内の真似をすることから始めた。最初に中西と同じ素振りをしてみたが、豪快なスイングは合わなかった。
さればと、山内の物真似をしてみると、すーっとできた。山内のスイングを自分流に修正して、手首の返しを生かし内角球を遠くへ飛ばす技術をプラスした。鋭い当たりが増えて、プロ4年目で初めて打率3割をマークし、ホームラン王を取った。
▽カープに弱いとヤジられ
ところが、野村には弱点があった。カーブに弱かった。西京極球場での阪急戦などで、スタンドから「オーイ、野村。こわーい、カーブが来るで。もう打つのは止めた方がええで」とヤジられたのを私(露久保)も記者席で聞いた。ファンに知れ渡るほど、野村はカーブにかなり苦しんだ。
打率、本塁打とも成績は良かったが、それはストレート系をとらえていたからだ。オールスターの時、山内に「カーブの打ち方を教えてください」と頭をさげた。返ってきた答えは、「それは経験だな」とそっけなかった。山内は、のちにその返事に触れ、「ライバルとなる男には教えられない。自分の企業秘密だから」と言った。
▽経験を積んだ打者を見つめる
それでも、野村には「経験」という言葉は大きなヒントになった。経験を積んだ打者のカーブ打ちを真似てみよう、と他チームの好打者をじっと見つめた。カーブをうまくヒットしたバッティングを見て特徴をつかみ、それを参考にカーブを練習で徹底的に打った。少しずつカーブを打てるようになった。カーブ苦手を克服した野村はその後、本塁打王9回など打撃タイトルを獲得し続けた。「山内さんからは言葉ではなく、多くのヒントを得た」と現役を振り返った。
私は、野村に冗談半分に問うたことがある。 「自分を除いて、プロ最高の打者は誰ですか?」
野村は、険しい目つきをして答えた。名を挙げたのは中西でも大下でもなく、山内でもなかった。それは、榎本喜八だった。「どこに投げても打たれそうな気がして、攻略方法がなかった」という驚異の打者だった。「バッティングの神様」といわれた榎本は、次回で具体的に書きます。(続)