「100年の道のり」(40)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎球史に残る選手を次々に獲得した阪神
 阪神は選手集めに必死だった。すでに戦力を整えている巨人に立ち向かうために、あらゆる情報を集めた。
 契約1号は門前真佐人という広島・広陵中の捕手である。1935年(昭和10年)10月、球団幹部が学校を訪問し、契約にこぎつけた。この直後に巨人が獲得に動いたくらいだから好捕手だったことが分かる。
 それから間もない11月6日、主将となる松木謙治郎と契約した。松木は敦賀商、明大を経て大連に渡って会社務めをする傍ら、大連実業団チームで活躍していた。
 後年、阪神監督になった。打撃指導は定評があり、東映フライヤーズの打撃コーチ時代には張本勲を鍛えて育てた。日本球界唯一の3000安打の記録を持つ、あの張本である。
 その5日後、藤村冨美男を獲得した。広島・呉港中のエースとして夏の甲子園で優勝。決勝の相手は熊本商の川上哲治だった。のち、藤村は豪快な打撃で「ミスタータイガース」と、川上は巨人に入団し「打撃の神様」と呼ばれた。
 36年1月10日、エースとなる若林忠志の入団を発表した。ハワイ出身の日系二世で、横浜・本牧中、法大から川崎コロムビア。「七色の変化球」の異名を取り、毎日オリオンズ時代に日本シリーズ最初の勝利投手になった。
 そして2月に、伝説の大打者といわれる景浦将の獲得に成功した。松山商から立大に進み、甲子園、神宮のスラッガーとして全国に名前が知られたスーパースターだった。
 スタートの陣容は監督に森とともに石本秀一(関学大)を配し、選手は22名。大学出身が多く、投手陣に御園生崇男(関大)、捕手に小川利安(慶大)、内野手に小島利男(早大)、外野手に平桝敏男(慶大)ら。中学出身では菊矢吉男投手(大阪・八尾)、伊賀上良平内野手(松山商)、外野手として山口政信(大阪・日新商)藤井勇(鳥取一)ら球史に残るプレーヤーがそろった。
 契約内容は今でいうフリーエージェントのようだった。もっとも高かったのは若林で「月額250円の3年契約」。景浦は「5年契約で月額140円」。松木はプロ野球に不安を持ち、2年分を事前に受け取った(月額200円)。
 ホームグラウンドは甲子園球場である。23年(大正12年)に完成、中等野球(現高校野球)のメッカとなっていた。自前の球場を持っている点では、阪神の最大特徴であり、大きな武器だった。(続)