「100年の道のり」(41)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎選手集めにスカウト合戦-その1
 正力松太郎がぶち上げた日本のプロ野球構想。巨人はその先陣としてチームを編成し、米国遠征を行った。プロ野球のリーグ戦がスタートした1936年(昭和11年)は7球団が参加して行われた。
 この正力構想より前に、プロ野球の考えを持っていたのが阪急のオーナー小林一三だった。
 関西は中等野球(高校野球)を開催していたこともあって、野球熱は東京よりも熱かった。日本初のプロ野球チーム、日本運動協会(通称・芝浦協会)は東京で生まれたが、関東大震災の煽りを受けて2年ほどの短命で解散。そのときの選手が関西に道を求め、小林の元で宝塚協会ができた。
 「電鉄リーグをつくろう」
 小林は関西の電鉄会社に声をかけた。阪神、近鉄、南海などである。線路を持っているから試合を観戦するファンの電車利用が利益に結び付く、と説いたが、実を結ばなかった。
 正力構想が阪急に持ち込まれたとき、小林は欧州に出張中だった。本社から連絡が入ると、担当者に檄を飛ばした。
 「チームをすぐ作れ。優秀選手を集めよ」
 小林の返電である。阪急軍が誕生した。
 参加を表明したのは大阪タイガース(阪神)、東京セネタース、大東京、名古屋、名古屋金鯱、それに巨人と阪急。
 阪急は監督に巨人にいた慶大出の三宅大輔を迎えた。三宅は東京六大学の大物を誘った。後輩にあたる宮武三郎をまず獲得。同僚で宮武と並び、和製ベーブ・ルースの異名を取る山下実に狙いを定めた。
 この山下争奪で先行したのは国民新聞が親会社の大東京だった。慶大出身の永井武雄を監督とし、後輩獲得に期待をかけた。山下をかくまったのはいいのだが、資金面もあって契約に時間がかかった。そのスキを突かれ、阪急に隠れ家を見つけられ、さらわれてしまった。
 資金力が明暗を分けた。気の毒なのは永井で、社会人との練習試合に負けると解雇されてしまった。リーグ戦が始まったときは二代目監督になっていたわけである。
 阪急は宮武、山下に続き、やはり慶大の強打者だった山下好一も獲得し、すんなりクリーンアップ・トリオができた。さらにハワイからジミー堀尾が三宅との縁で入団した。堀尾は巨人の母体だった大日本東京倶楽部の主力打者で米国遠征にも参加している。
 関西球界からも大物を取った。関大の俊足ランナー西村正夫はトップ打者として契約。同時に同僚のエース北井正雄を獲得した。北井は台湾に渡って野球を続けるところを直前に翻意させた。
 阪急の資金力はすさまじいものだった。スカウト勝負は実弾がモノをいうのは昔も今も同じである。(続)