第9回 日本代表チームの立ち上げ(菅谷 齊=共同通信)
▽プロチーム発足前提のチーム編成
ベーブ・ルースが来るとあって、主催者は興奮状態だった。
正力松太郎は大リーグ選抜軍がシアトルを発つ2週間前に、日本球界の要人にチーム編成の協力を求め、メンバー30選手が決まった。
総監督 市岡忠男
監 督 三宅大輔、浅沼誉夫
投 手 青柴憲一、*浅倉長、沢村栄治、*武田可一、*伊達正男、*浜崎真二、ビクトル・スタルヒン
捕 手 *井野川利春、*伊原徳栄、久慈次郎、倉信雄
内野手 江口行雄、苅田久徳、津田四郎、*富永時夫、永沢富士雄、新富卯三郎、*牧野元信、水原茂、三原修、*村井竹之助、*山下実、山城健三、
外野手 *杉田屋守、中島治康、二出川延明、夫馬勇、堀尾文人、矢島粂安、山本栄一郎、*李栄敏
このメンバー編成には、日米野球が終わった後、プロ野球チームを発足させる計画が進んでいた。終了後にプロ選手として契約する選手と、日米野球だけ出場する選手(*印)の二通りが混ざっていた。
契約第1号は三原(のち脩)で続いて苅田、中島と、東京六大学リーグで活躍した花形選手がプロの道を選んだ。
ただ、野球でほんとうにメシが食えるのか、という不安を持つ選手も少なくなかった。
▽大学進学からプロへ、その後の運命を決めた沢村の決断
「日本チームには目玉選手が必要だ」
3年前の第1回日米野球で一応の成功を果たした主催者は、さらにグレードアップを図った。契約第1号の三原は神宮球場のスター選手で、彼の契約は信用状の役割となった。
そして、沢村を加入させた。
その後のことを考えると、よくぞ17歳の少年投手を獲得したものだ、といっていい。沢村は京都商のエースとして甲子園大会に出場。速球とドロップで三振の山を築き、注目の投手として名前が知られ始めていた。
沢村が目玉だった。
慶応大に進学、というのが沢村の考えだった。事実、慶応大の指導者がアドバイスしていた。
正力が慶応大の野球部幹部と話をつけ、総監督の市岡が京都商に理解を求めた。丁寧な対応が功を奏して沢村を参加させることに成功した。正力は沢村父子と直接会い、完璧な詰めをしている。ルースといい、沢村といい、交渉の巧みさが分かる。
「栄治君は、私が面倒を見る」
正力のこの言葉は大きい。年端のゆかない子供を持つ親とすれば、先の分からない世界に送り込む不安を案じるのは当たり前で、それを払拭する正力の約束だった。
今でいう契約金300円だったという。
すでに知られているように、沢村はプロ野球の草創期を背負う活躍を見せたが、太平洋戦争で亡くなった。もし、大学に進学していたら、と多くの野球関係者は思ったはずである。学徒出陣に遭遇したことは間違いないだろうが、おそらく3度の出兵はなかった。生きた可能性はあった。日米野球参加は、そう思うと、まさに沢村の人生を決めた岐路だった。
給料の話をすると、基準があって社会人170円、大学130円、中等学校120円。沢村は120円だった。最高額は久慈の500円。主将としての役割を加味された。
自ら代表チームに売り込んで契約をつかんだ選手もいた。堀尾は日系二世で、ロサンゼルスの新聞でチーム結成を知り、押っ取り刀で飛んできた。のちジミー堀尾としてプロ野球で活躍したが、太平洋戦争勃発で帰国した。
山本は日本最初のプロ野球チーム、芝浦協会のエースだった。(続)