第10回 「選手管理」
▽罰金は勝つための法律
堀内は倍々になる「門限破り」と「遅刻」の罰金を重ねに重ねて、ついに「給料の4割を取られたことがあって、やっと彼のやんちゃが治った」と牧野さんは書いている。
罰金の最高額は「遅刻」だった。1回5000円である。これが2度目から倍々になるのだからたまったものではないが、川上監督は自著「遺書」の中で最高額にしてある理由をこう書いている。
「集合時間に10分遅れて、チームの30人に迷惑をかけたとする。その1人1人に10分ずつロスさせて、30人分で計300分、時間にして5時間だ。その5時間を無駄にさせた」
この考え方は、川上が禅の修行したとき読んだ「百丈清規」(はじょうしんぎ)という本の中に、雲水に対してさえも「人に迷惑をかけるなという厳しい罰則がある」と知ったからだという。
もちろんこういう禅からきた考え方も底辺にあるのだとは思うが、私は川上監督はもっと卑近なことから罰金について考えていたのだと思う。川上監督に限らず、プロフェッショナルというのは「金が基本」の存在だからなのではないかと思う。
グラウンドでの成績をよくするために日夜にわたって心技体を鍛え、養生し、練習し研究し、自分の働きがチームの勝利に結びつくようにプレーするように努める。その結果が年俸という金銭に結び着く。
監督は、選手の個々がそのような考え方になるように管理し学ばせ、習慣になるように努める。
グラウンド上の罰金は、すでに書いたようにサイン見落とし、全力疾走しない、怠慢プレー、ボーンヘッドバント、進塁打できなかったなどのプレー上の失敗に課せられるが、その数値がすべて年俸に反映されるのだ。いわゆる「貢献度査定」である。
この年俸に跳ね返る「貢献度査定」を最初に採り入れたのも巨人だった。ネット裏で選手1人1人の動きをチェックしていたのは、元投手からフロント入りした高橋正勝だった。高橋は一軍の試合のすべてに帯同して、107項目あったといわれるチェックポイントを、目を皿にしてチェックしていた。
この高橋のチェックとベンチでの牧野を中心とするコーチ陣の評価が、年末の年俸更改交渉における球団側査定の「主役」になった。
▽罰金は家族に還元された
この制度を入れたのはV9の中ごろの1959、60年(昭和44、45)ころからだったと思う。佐々木金之助代表の後を継いだロイ佐伯文雄代表は、いかにもハワイ育ちらしいひょうひょうとした動作物腰で年俸更改に当たって、「オレが言ってるんじゃない。数字が語っているんだよ」と選手を煙に巻いていたという。
さて罰金の使い道である。徴収した金をどう使ったかというと、年末の納会の費用の足しにしたのだった。納会は傍系のホテル熱海後楽園で開かれるのが恒例だった。昼間、近くのゴルフ場でプレーして夜が宴会である。宴会には豪華な景品として出されて家族に還元された。
この納会は取材陣シャットアウトだったのであまり取材しなかったのだが、ある年、廊下から耳を澄ましてみたことがある。そのときのことで「長嶋の熱演」を覚えている。
廊下で中をうかがっていると、長嶋の声らしい声と盛大な拍手が聞こえてきた。障子を少しだけ開けて覗いてみた。すると長嶋が、
「は~あるばる……来たぜぇ~函館……」
とマイクを持って舞台の左から右へ、右からから左へ少し腰を曲げて、走りながら大声で歌っていた。やんやの喝采だった。入団時には「異国の丘」しか歌えなかった、と伝えられている長嶋だったが、これが長嶋が熱演しているのを見た最初で最後の光景だった。
信賞必罰の「賞」には、2通りあった。
1つは球団が報償金として出すもの。もう1つは監督のポケットマネーである。
球団が報償金を出すのは禁止されていたが、禁止を守っていた球団は1球団もなかった。巨人以外の各球団は「巨人戦は1試合について200万円」といわれていた。負ければ払う必要はない。逆に罰金が発生した。(了)