第7回「日生球場」(2)完

▽被本塁打560本、人一倍の練習のバネに

輝ける記録に鈴木啓示はさして関心を示さない。彼の頭にこびり付いているのは「560」の被本塁打記録なのだ。2番手の山田久志(阪急)の490本よりはるかに多く、ロビン・ロバーツが持つ502本の大リーグ記録をも上回る。
「この560本が僕の“バネ”であり“糧”やったね。打たれたからこそ、今度はやり返したると、常に反省して人一倍練習しましたよ。普通の投手やったらこれだけ打たれたら野球続けられへんでしょ。だから自分にとっては立派な勲章。『失敗こそ財産』と思っています」
彼はこうも言う。
「いいことにいつまでも酔っているのがアマチュア。打たれた1球にいかに反応するかがプロ」
投手の最大の屈辱は本塁打を打たれたときだとは誰でも分かる。鈴木もその思いに駆られてきた。

▽屈辱を味わった野村のホームラン

「日生ではスペンサー(阪急)に場外へ運ばれた。打者に転向したころのジャンボ尾崎(将司)にも打たれたな。1本1本が悔しいけど、一番屈辱的だったのは南海の野村(克也)さんやったね」
 野村は本塁打するとスタンドでボールが跳ねてからようやく走り出した。打たれた直後、鈴木は足元のロージンバックを拾って気持ちを切り替えようとした。ふと、振り返ると野村は一塁ベースを回ったところだ。仕方なくスパイクシューズの紐を結び直して時間を費やしてもまだ三塁ベース辺りを走っていた。
「のっそりのっそり走る。屈辱の時間が長いんですよ、あの人の場合は」
その野村に通算19本の本塁打を打たれた。記録を調べて見ると11本が初球か2球目を狙われている。野村は鈴木の癖を見抜いていたのか。
 長池徳士(旧名徳二=阪急)には22本打たれたが、忘れられない一発がある。阪急と優勝争いをしていた78年9月11日、この試合に勝てば優勝という大事な試合で、1―0とリードしていた7回2死から代打満塁逆転本塁打を浴びたのだ。初球のフォークボールだった。

スペンサーには6本打たれた。
「この右打者3人を牛耳るのが僕の力の表現でしたね」
と鈴木は振り返る。スペンサーが帰国するとき、「スズキ、このノートを百万円で買わないか」
と持ち掛けてきた。データ野球を日本に持ち込んだ人らしく、そこには選手の癖などがびっしり書き込まれていた。勿論、鈴木のデータも。阪急勢によく打たれた訳が分かった。
 入団2年目に近鉄沿線から西宮市の高台に家を建てて引っ越した。当時の近鉄は弱小球団にありがちな仲良し集団だった。鈴木は思った。
「染まってはアカン。傷を舐め会ってはアカン」
露骨な嫌がらせが耳に入った。
「あいつが投げるときはエラーしてやる」「打たんとこか」
しかし、3年目で23勝、4年目に24勝を挙げると、いつの間にかマウンドに鈴木が立つと全員が勝利を目指してひとつになった。

▽モデルチェンジに成功した秘訣は狭い球場対策

「巨人の堀内(恒夫)とは同期生だが、彼が羨ましかった。右に長嶋さん、左に王さんがいる。それだけで優位に立てるんやから」
後にこう言って笑ったものだ。
 若いころの力に頼っていた鈴木も次第に頭脳的な投法を取り入れるようになった。力投型のタイプなのにスムーズにモデルチェンジした投手の一人だと思う。
日生球場は両翼は91・4㍍と狭く、グラウンドは三塁から左翼の方向に向けてわずかに下っていた。マウンドも低くかった。投手にとっては不利な条件でペナントレースの半分を消化しなくてならない。否応なく低めに投げる投球を覚えた。投手に不利なホームグラウンドの条件が投手を育てた一例だろう。
 ところで、鈴木語録には彼一流の精神論が多い。
「投げ出したらアカン」「男の人生にリリーフはない」
そして「草魂」
この草魂はある日、自宅への取り付け道路のコンクリートを突き破って伸びる雑草を見て、その逞しさに感動。「雑草の魂」と名付けたことに始まる。あとで「雑」と「の」を外して「草魂」なる人生訓にまとめたのだそうだ。
鈴木の球譜は、あの快速球同様の生き様なのである。(了)

「日生球場メモ」
正式名称は日本生命野球場。大阪市中央区森ノ宮。1950年~96年。両翼91m、中堅120m、2万500人収容。大阪環状線の森ノ宮駅のすぐ近く。この地域は大阪のほぼ中央に位置しながらいたって下町的な雰囲気が漂っている◆初ナイターは58年5月20日の近鉄対大毎戦夜間照明が暗く、スコアボードははめ込み式。オールスター戦などのビッグゲームは開催されなかった珍しい球場だった。96年5月9日、ダイエーの王監督が乗ったバスに生卵が投げつけられる事件が話題になった◆97年12月に取り壊された後はマンション予定地になっているが、難波宮跡地で文化財埋蔵地帯なので計画がすすんでいない。現在は駐車場に使われている。(了)