「オリンピックと野球」(7)-(露久保孝一=産経

◎まさかの崩壊「三原マジック」

 東京オリンピック開幕を3週間後に控えた9月半ば過ぎ、セ・リーグの優勝争いは、五輪競技の熱気を先取りするかのように盛り上がった。1964(昭和39)年9月19日時点で、大洋が首位に立ち、2位阪神に3.5ゲーム差をつけた。残り試合は大洋が6、阪神が7。両チームの直接対決が4試合残っていた。
 これがタイガース側に逆転優勝の可能性を期待させた。が、「大洋、絶対有利」の状況は変わらない。しかも、大洋の監督は「三原魔術」の奇跡を呼ぶ男・三原脩である。「三原マジックでもう優勝は決まったようなものだ」。大洋ファンはその日を信じて疑わず、大洋の中部謙吉オーナーは、優勝パレードをどうおこなうかまで考えたほどだ。
 しかし、勝負は時としてとんでもない展開になる。20日の大洋―阪神の直接対決ダブルヘッダーで阪神が連勝した。ゲーム差は1・5に縮まる。しかし大洋は23日の対巨人2連戦に連勝して、優勝マジックを1とした。大洋は残り2試合で1勝すればいいし、連敗してもそのあと阪神が2つ負ければ大洋のVとなる。

▽守護神エースがワイルドピッチ

 26日に両者がぶつかる。阪神は5-0,3-2で連勝した。阪神は絶好調のまま残り3試合をすべて勝ち大逆転優勝を果した(この連載の2回目参照)。
 奇跡に歓喜したタイガースと悲劇に見舞われたホエールズの明暗は、なぜ起きたのか? 三原マジックはどうしたのか? マスコミはその原因を探った。三原魔術の誤算として、次のようなケースがあがった。 
 誤算1.26日の阪神との2試合目、八回裏、阪神は同点に追いつきなおも二死満塁の逆転機をつくる。三原監督は、それまで21勝している稲川誠をリリーフに送った。ところが、守護神エースがワイルドピッチをする。三塁ランナーが還って阪神が勝ち越した。そのまま阪神が勝つ。誤算2.前日の25日に試合が予定されていたが、雨天順延となった。大洋ナインが甲子園に着いた時にはグラウンドは乾いており、試合はできる状態だった。「阪神の陰謀だ」と大洋は歯ぎしりしたが、その動揺が翌日の連敗を呼んだ、と大洋の捕手・土井淳は敗因にあげた。他にも三原監督の誤算はあったと思われる。

▽それでも三原マジックは消えず

 しかし、上記の2つは想定外のことである。三原マジックは、確かに功を奏しなかったが、ペナントでは投手交代や代打、打順などで多彩な作戦を駆使し、首位を走って旋風を巻き起こしたのは、やはり三原魔術のなせる技ではあった。
 三原監督は西鉄時代、1956年から3年連続日本シリーズで水原巨人を倒し、58年には3連敗から4連勝する見事な逆転劇を演じた。その勝負にかけた執念は、大洋でも続けられた。東京五輪を前にした64年の土壇場の戦いでは、上手の手から水が漏れてしまったが、三原魔術は今日に至っても語り継がれている伝説なのである。(続)