「100年の道のり」(23)
▽その名は「東京ジャイアンツ」
大日本東京野球倶楽部の一行がアメリカ西海岸のサンフランシスコに着いたのは1935年2月27日の午後だった。
「トウキョウ・ジャイアンツが来る」
選手たちは新聞の見出しに驚いた。チーム名が変わっていたからである。
これは先乗りしていた鈴木惣太郎とフランク・オドールが話し合って決めていたのだった。大日本…では堅苦しいし、プロ野球チームらしくない、ということで、オドールが提案した。
「トウキョウにジャイアンツのニックネームをつけたらどうか」
オドールは自分が在籍していた大リーグのニューヨーク・ジャイアンツをヒントにしていたのである。ゴロがいい、と鈴木は納得した。
チームが到着する10日ほど前に決まった。新聞はそのチーム名を使い、これがPRを兼ねた。
鈴木には計算もあった。
「日本語に直せば、東京巨人軍になる」
後日、正力松太郎も気に入った。
大日本東京野球倶楽部-トウキョウ・ジャイアンツ-東京巨人軍となったのである。
▽初勝利は沢村-スタルヒンの継投
トウキョウ・ジャイアンツの第1戦は3月2日、サンフランシスコから近いメリースビルという小さな町だった。相手はサンフランシスコ・ミッションズといい、パシフィック・コースト・リーグ(PCL)の所属するプロチームで、ちょうどトレーニングをしているところに押しかけた。
PCLは大リーグのファームで、3A。かなりの力を持っていた。
3Aといえば、戦後の日米野球で最初に来日したサンフランシスコ・シールズがそうだった。日本チームは全く歯が立たなかった力を持っていた。相手はその3Aである。
0-5で敗れた。完敗だった。先発の青柴憲一が打たれたのだが、打者も軽くひねられた。初戦ということで戸惑いもあったのだろう。
第2戦は1日おいた4日。やはりミッションズとの試合だった。先発は沢村栄治である。
先発メンバーは、4田部武雄-6苅田久徳-8ジミー堀尾-9矢島粂安-5水原茂-7津田四郎-3永沢富士雄-2中球武-1沢村栄治
打線がよく打ち、2回に一挙5点を挙げて主導権を握り、計12点を奪った。投げる沢村は前半力投し、後半はつかまったが、8回まで失点5に抑え、9回はビクトル・スタルヒンが締め、圧勝した。初勝利である。
PCLのチームに1勝1敗というのは上々のスタートだった。
ただし、この後は強行日程にさらされる。アメリカの広さとたくましさを、イヤというほど知ることになる。(続)