平松政次インタビュー(聞き手・露久保孝一=産経新聞)

◎長嶋、王と勝負は男のロマン、その結果が名球会と殿堂入り

インタビューの後、平松氏(中央)と懇談(平松氏の右は露久保、左は深澤両理事)

 切れ味抜群の高速シュートで、打者をなで斬り。あの「かみそりシュート」の平松政次さんの颯爽としたマウンド姿を、大洋ファンはもちろん、多くのプロ野球ファンはよく覚えているはず!
 平松さんは、大洋で1967年(昭和42)から84年までエースとして投げ続け、プロ通算201勝196敗16セーブの記録を残した。名球会入りを果たすとともに、2017年1月、野球殿堂博物館からエキスパート部門で選出された。その平松さんを、私たち東京プロ野球記者OBクラブが4月27日に開催した2017年次総会でゲスト招待、野球殿堂入りの感想と現役時代の思い出話を語っていただいた。野球殿堂入りまで上り詰めた平松さんの「一球入魂物語」です。

▽甲子園優勝も巨人入りの夢消える

――野球殿堂入り、おめでとうございます。まず、その感想をお聞かせください。
 「実は10年前に、野球殿堂入りの候補として私の名前が出たことがありました。その時は、まさかこの僕が、と信じられませんでした。ところが今回、本当に実現して、まだ夢ではないかと思っています」
――少年時代から野球を始め、67年8月にプロ入りした。大洋ホエールズでは18年間、投げ続けた。平松さんにとって、野球人生はどういうものでしたか?
 「子供の頃、ジャイアンツの長嶋(茂雄)さんに、すごくあこがれた。プロ野球に入って、サード長嶋、ファースト王(貞治氏)をバックに投げたい。そんな少年の夢がプロへの小さな第一歩だった。65年、3年生の時に岡山東商高校で春の甲子園大会に出場し岡山県勢で初めて優勝した。しかし、この優勝はラッキーで、フロックだったと言われたくなかった。自分たちが努力して、力で勝ち取ったものなんだ、と全国のファンに見てもらいたかった。だから、高校卒業したあとは、自分は岡山県代表の甲子園優勝投手としての実績を認めてもらうために、またその名誉を守り抜くために、頑張らなければいけないと自分を奮い立たせました。優勝の重みはものすごかった。優勝してなければ、あんな気持ちにはなりませんでした。あの時は、とにかく、ピッチャーで一人前になりたいと強く意識しました」
――大洋ホエールズ入団は、どんな様子でしたか?
 「前年、池永正明(いけなが・まさあき)さんが下関商業高から西鉄に入団した時は、契約金5000万円といわれた。いまなら5億円くらいの金額になるんじゃないですか。ところが、翌年、私の時代からドラフト会議が始まった。第1回ドラフト会議では、私は巨人希望だったけど、中日に4位で指名された。最初から断るつもりだった。一度、球団の方に会って話を聞いてみると、金銭的にはすごい額を提示された。それでも、頭の中から巨人への夢が消えず、断りました。それで、社会人野球の日本石油に入社した。日石では月1万円で生活しました」

▽長嶋に火の出るようなピッチングでぶつかる

――日石で次のドラフト(翌年の第2回)を待ったわけですが、やはり、巨人の指名を。
 「そうです。ドラフト前に巨人のスカウトから電話が入り、私も候補の一人かと思った。でも、巨人は何人かに声をかけていたみたいで・・・。それでも、なんとか巨人にと祈る思いでドラフトの日を待ちました。ところが、会議が始まっても、なかなか私のところに誰も言ってこない。午後2時になってやっと一人が知らせにきた。私が『どこですか?』と聞くと『大洋だ』と。そうですか、と気分を入れ替えた。翌年8月8日に都市対抗で優勝しました。そのあと(2日後に)大洋入団を決めたのです」
――その大洋で、今度はあこがれの長嶋、王と対決することになった。
 「大洋に入る前は、プロで1勝できればいいやと思った。ところが、プロの厳しさに慣れ力がついて勝てるようになって、最多勝を2度取り、沢村賞も手にした。通算201勝して名球会にも入った。私は、大洋に入って良かったと思っています。巨人に入っていたら、これほどの活躍はできなかったでしょう。巨人の投手であったなら、長嶋さんと王さんとは勝負できませんでしたから・・・。燃えるものがなかったと思う。あの大打者と敵同士になり、二人との対決には、全神経をぶつけて挑んだ。長嶋さんが打席に入ると、全身が震え、打ち取ってやろうとマウンドで熱くなるのを感じたものです。一球一球、火の出るような投球をしました。長嶋さんとの対決は、まさに男のロマンだった。巨人と対戦して自分を磨き上げて、それなりの成績を残すことができた。長嶋さん、王さんがいたから、僕の野球人生に花が咲き、野球殿堂入りにもつながったのだと思っています」

▽慶大出身の方から教わったカミソリシュート

――平松さんは、少年時代から野球の指導はどのように受けてきたのですか?
 「長嶋さん、王さんが僕の野球人生を変えた恩人ですが、もうひとり、僕には恩人という人がいます。中学に入って僕はショートを守らされた。そのとき、ある”名伯楽”がコーチとしてやってきて、あのショートの子をピッチャーにしなさいと監督に言った。それから、僕の投手としての野球人生が始まった。名伯楽はさらに、高校進学に向けて、平松をとったら甲子園で優勝します、と岡山東商業高校の校長と野球部監督に推薦してくれました。あの名伯楽に出会ってなかったら、僕はショートのまま終わっていたかもしれません。名伯楽とは、倉敷工業高出身の妹尾求(せのう・もとむ)さんです。一般の方で、ユニホームの似合う素敵な方でした」
――平松さんといえば、かみそりシュートが代名詞でした。あのシュートはどこから生まれたのですか?
 「それが、正体不明の人から教えてもらった(笑)。社会人の時、カルテックス日石のラフなお兄さんがわれわれの練習を見にきて、シュートを教えてやろう、と言われた。言葉だけの指導だったが、とても分かりやすかった。あとで、日石の先輩で慶大出の人とわかった。体育館で試した、それなりのものをつかんだ。大洋に入団して3年目の春のキャンプで、近藤和彦さん、近藤昭仁さんと打撃練習で対決したときに、『なんだ、こんなボールしか投げられないのか』と言われた。それで『いや、ちゃんと投げられます』と言ってシュートを投げたら、近藤和さんはビックリしました。プロで。本格的に投げた初めてのシュートに、これはいけるぞ、と感じた。それから、シュートをひとつの武器にできました」
――いろんな恩人や名伯楽との出会いがあり、あこがれのスーパースターは敵になり、燃えるような勝負を挑んだ。そこに自分自身の努力がプラスされて実りある野球人生にした、というわけですね。
 「本当に、そう感じます。長嶋さん、王さん、名伯楽、正体不明のシュートの伝授人に、この場を借りて感謝したいと思います。野球は、だから面白いスポーツ、人生も面白い。これからも野球を愛し続けていきます。若い選手には、大きな夢を抱いてチャレンジしていってもらいたい。野球はもっともっと発展していきます」(了)

【後記】

驚きと喜び。平松さんは野球少年に戻ったような感動を露わにした。その裏話2題を紹介しよう。
 元ニッポン放送ショーアップナイターの実況で知られた深澤弘アナウンサー(OBクラブ理事)が「長嶋茂雄さんは、ホームベースの上を通る球はなんでも打てるが、平松の球だけは打てなかった、と言っていました」という秘話を語った。あこがれの長嶋さんからの投手冥利に尽きる話を聞き、うれしそうな子供のような表情を見せた。
 さらに、である。極めつきの“特ダネ”がこれ。東京中日スポーツ記者として健筆を振るった高田実彦さん(OBクラブ副会長)が「かみそりシュートと名付けたのはだれか知っていますか?」と平松さんに尋ねたところ「いえ、知らないんですよ」。それを受けて「長嶋さんですよ」と伝えると、平松さんは「えっ、本当ですか」「知らなかったなあ」とびっくりしたり、喜んだり。喜色満面で「それは早く(現役時代)言ってほしかったな」。平松さんの生涯の代名詞になったカミソリシュートの命名は長嶋語だった、という真相が明らかになった瞬間だった。
 平松さん、最後に「帰って家族に教えなくてはね」。浮き浮きして家路についた。帰る足取りが軽い、軽い。グラウンドで取材した記者の、まさにカミソリシュートの逸話を胸元に投げ込んだ格好でもあった。(了)