「評伝」 野村克也
「考える月見草」(5)-(露久保孝一=産経)
◎ ミスターと1対1で戦う日
この連載を始めてまもなく、ある熱烈な巨人ファンから「早くONのことを書いてくれ」と催促を受けた。私も書きたかったテーマだったので、この回から長嶋茂雄と王貞治、さらに稲尾和久、山内一弘らの名選手と野村とのふれあいの話を書いていく。
最初に、長嶋である。長嶋がプロ入りした時から、野村はすごい選手がいるんだな、とかなり気になった。
1958(昭和33)年2月16日、長嶋が兵庫県明石でのキャンプに参加するため明石駅に到達すると、「英雄」を一目見ようと駅前までファンの列ができた。そのあと高知で行われた巨人―阪急のオープン戦は、早朝5時から3000人が行列をつくった。
その凄さを友人から聞いた野村は、唸った。まるで太陽の下で咲くひまわりだ、それに比べ俺は貧しい家に育った無名で不器用な選手だ、日陰で咲く故郷の月見草みたいなものだ。
のちに、有名なセリフになる「ひまわりと月見草」は、すでに長嶋が新人の時から野村の脳裏に植え付けられていたのである。
▽カンピューター野球にID野球
その後の長嶋は、「ON砲」としてプロ野球の人気の頂点に立ち、打って走って守ってファンを魅了し続けた。野村は、戦後初の三冠王に輝いても、新聞の一面を飾ることはなかった。
「オレは、しょせん日陰に咲く花だな」
寂しく、空しかった。しかし、長嶋に対する負けん気が、年ごとに増していった。野村が下積み苦労を乗り越え、工夫、練習で一人前の選手になった裏には、長嶋、王みたいな一流にいつかは追いついてやるという野心があったからである。
1990年になり、野村はセ・リーグ(ヤクルト)の監督に就いた。長嶋と「指導者として1対1の勝負」が実現した。
「長嶋のことを話せば、新聞は一面で扱う。面白くなるぞ」
野村は、新聞、テレビを利用しての長嶋批判に戦いの戦略をおいた。新聞が取り上げるミスター批判のネタを、毎日考えた。ただの攻撃ではなく、野球理論から攻めた。
「ひらめきに頼るカン(勘)ピューター野球と理詰めのデータ野球はどちらが上か、勝負しようではないか」
動物的カンで派手なプレーを演出し「天才」と呼ばれた長嶋に対し、野村は敵の特徴を研究して戦う「地味なせこい」野球と評された。その評判を逆手に取り、野村は「経験や勘に頼らずデータに基づいた科学的なプレーをする」という意味からID(Important data, 記録重視)野球をキャッチフレーズにした。
ID野球は長嶋カンピューター野球に勝ち、新聞、テレビはトップで報道した。ヤクルトナインの士気はさらにあがり、逆に巨人側にプレッシャーをかけた。考える野球を前面に押し出しての野村の決死の戦いは、見事に花開き、2年後セ・リーグ制覇に結びつけた。月見草はついにひまわりに勝ったのである。
▽一面を飾ることはこの上ない勲章
野村は、シーズンを終え「あの時のことを思い出したよ」と話した。
1975年5月22日、野村は長嶋の本拠地後楽園球場で通算600号を達成した。記者会見で野村は、ひまわりに比べひっそり咲く月見草が打った600号というエピソードを交え大いに語った。
野村は「練りに練った談話を伝えた」が、翌日の東京各紙の一面は「長嶋新監督率いる巨人が球団史上初の二桁借金を背負った」記事であり、大阪は「阪神が完封勝利」が一面だった。
野村は、涙をこらえた。いつの日か、長嶋を押さえて俺が一面を、とその日を待った。野村にとって、一面を飾るというのは、比べものがない価値ある勲章なのである。(続)