「いつか来た記者道」(31)-(露久保孝一=産経)

◎オリンピックの年はオレに任せろ
猛威を振るった感染症のパンデミックにさらされながら、2021年夏、東京オリンピックが催される。プロ野球界も影響を受けながらのペナントレースの戦いを余儀なくされる。誰もが、またいやなシーズンになりそうだな、と顔を曇らせる。
しかし、オリンピックと聞いて「幸運の到来」と胸を躍らせる人たちもいる。野球界でいえば、福留孝介選手であり、松坂大輔投手である。
五輪大会で日本の野球が注目されるようになったのは、1984年のロサンゼルス大会(公開競技)からだった。日本代表は松永怜一監督、広澤克己らにより見事に「金」メダルを獲った。92年のバルセロナ大会では伊藤智仁、小久保裕紀らで「銅」、96年アトランタ大会で福留らにより「銀」、2004年アテネ大会で松坂大輔、高橋由伸、福留らの活躍で「銅」を獲った。メダルを手にした選手のなかで、福留だけが2度経験している。
▽五輪野球でただ1人2度のメダル
代表に選ばれたのは当時の戦力事情もあるが、日本チームの最強軍団に近い編成チームであった。たまたま選ばれたのではなく、福留も松坂もリーグを代表する「力」が日本勝利のために必要だったのである。福留は、その力と活躍により2つのメダル獲得に結びつけた。
福留は20年秋、阪神から戦力外通告を受けた。プロ22年目を迎えたこのシーズンは出場機会がほとんどなく、無念の一年を送った。首位打者2度、16年に日米通算2000安打を記録している好打者は、21年は古巣・中日に戻り再起を図る。 
アトランタ五輪では銀の喜びよりも、金をとれなった悔しさがこみあげ、涙を流した。全力でプレーし、あくまで勝利を目指して戦いぬく勝負師の魂が、福留の野球哲学にある。
松坂もシドニー、アテネで日本チームのエース格として投げ、目標とした金を獲れずに、ペナントレースでは見せない涙を落した。
▽野球でもう一度、「金」のプレーを
21年は延期された東京五輪が開催される。五輪開催時には、福留にも松坂にも野球競技を戦った祭典のどよめきが甦るはずである。あの五輪のエネルギーを野球の場で出そうと駆り立てられ、40を超えた体力にムチ打って、一軍のひのき舞台に立つであろう。
人の幸運については、蛇をみたら幸運がやってくるとか、蜘蛛(クモ)の巣をみかけるのは幸運が訪れる前兆だとか、言い伝えがある。
福留と松坂には、五輪での闘争心が幸運を呼ぶことにつながりそうだ。オリンピック開催イヤ―の興奮の高まりのなか、福留はきれいに流れるフォームの左打席からホームランが何本飛び出すか。松坂は、力投の末の勝利をあげられるかどうか。
そのアーチと白星に、ファンは心からのカムバック金メダルを両者に贈るはずである。(続)