「大リーグ ヨコから目線」(37)-(荻野 通久=日刊ゲンダイ)

◎すべてがユニークだったドジャース・ラソーダ監督
▽常識を覆して殿堂入り 
去る1月7日、ドジャースのトミー・ラソーダ元監督が亡くなった。93歳だった。昨年暮れに体調を崩して入院。持ち直して一度は退院したが、自宅で心肺停止となり搬送先の病院で死亡が確認された。
 ラソーダ元監督は1997年に野球殿堂入りしている。投手出身で現役時代はメジャーの成績は0勝4敗。それが殿堂入りできたのは監督として評価されたからだ。1976年のシーズン終盤から96年のシーズン途中までの20年間、ドジャースで指揮を執り、通算成績は1599勝1439敗。ワールドシリーズは2回、リーグ選手権は4回、地区選手権は8回勝っている。
戦後、監督としての実績で野球殿堂入りした人は20人いるが、メジャーリーグの投手出身者はラソーダ監督ただ一人だ。「投手出身監督は成功しない」というメジャーの常識を覆した。
ちなみに19日に75歳で亡くなった同じドジャースのドン・サットンは投手としての実績(324勝256敗5セーブ)で98年に殿堂入りしている。
 どの球団でも新監督は大きな期待を寄せられるものだが、ラソーダ監督は違った。前任のウォルター・オルストンは23年も務め、6回リーグ優勝し、そのうち4度は世界一の名将。選手と一線を画し、近寄り難い威厳があった。作戦、用兵に長けていた知将タイプ。
一方、ラソーダ監督はイタリア系らしく陽気で目立ちたがり屋。選手の間にドンドン入っていく。作戦、用兵より選手を気持ちよく働かせて勝つタイプ。フロント幹部のアル・キャンパニスの抜擢だった。コーチから昇格したとはいえ、あまりにも対照的な新指揮官にファンや地元マスコミ、いや、球団の中にさえ「ラソーダ監督で大丈夫か?」という声があったそうだ。
 それが77年、開幕ダッシュに成功。観客動員は295万5087人(当時の大リーグ最多記録)。30本塁打以上の打者が4人という豪快な野球でリーグ優勝。ファン、マスコミの心をつかむと翌年、連覇を果たし監督の地位を不動のものにした。
▽1億円のロイヤルティ?
またラソーダ監督ほどMLB(大リーグ機構)で野球の国際化に尽力した人はいないと言われている。WBCの公式大使としてアジア、ヨーロッパ、南米など世界30か国を訪問。
日本のプロ野球との関係は言うまでもあるまい。95年に野茂英雄が近鉄(現オリックス)からドジャースに移籍したとき、公私にわたりバックアップ。度々、来日して近鉄でコーチをしたり、ダイエー(現ソフトバンク)にドジャースの若手選手を送ったりした。
 中日との関係では球団フロントからこんな話を聞いた。87年、星野仙一監督が就任した中日はユニホームの胸のDragonsのロゴのデザインをドジャースのそれと一緒にした。
「その時、球団はロイヤルティとしてドジャースに1億円を払った」
 とすればドジャースにはいい商売だ。ひょっとしてラソーダ監督が「星野仙一は私の兄弟」と言っていたのはこんな背景もあったのだろうか。(了)