◎アーロンと“756フィーバー”
あれ以来、あんな興奮を感じたことがない-と思っているファンを代弁して取り上げたいのがこれ。王貞治がハンク・アーロンの持つ755本塁打の大リーグ記録を抜いた“756フィーバー”である。
1977年9月3日、後楽園球場でのヤクルト戦で、右翼席中段に756号を打ち込んだ。観衆5万人、総立ち。夏から本格的になり、王の自宅には連日マスコミが押し掛けた。お祭り騒ぎだった。明るく楽しい痛快物語は初秋に完結を見た。
それはボクシングの白井義男がダド・マリノに勝って日本初の世界チャンピオンになったとき、プロレスの力道山がシャープ兄弟を空手チョップでやっつけたときに次ぐ快挙と思ったものである。現在のように日本人大リーガーが次々と誕生する時代では味わえない興奮だった。
そのアーロンが亡くなった。2021年1月22日。86歳。コロナウィルスのワクチンを注射してから18日後だったという。
大リーグの選手名鑑を見ると、必ずトップに出ているのがアーロンだった。スペルがAARONでAが連続していたからである。晩年になると、その実績からB5の大きさの名鑑だと1ページでは収め切らず次ページまで渡った。
黒人リーグ出身の最後の大リーガーだった。ブレーブスでは内野から外野に転向してから打撃の素質を開花させた。コンパクトなスイングでバットにボールを乗せるようにして外野席へ運んだ。それでも打球が鋭いところから“ハンマー”の異名を取った。
若いころは荒っぽい打者で、ボール球を強引にひっぱたいていた。バッターボックスから足を出して打つこともあり、反則打撃としてアウトになったこともある。
黒人ゆえに厳しい環境の中でプレーしていた。ベーブ・ルースの714号に挑戦のときは90万通を超える脅迫状が舞い込んだほどである。74年の開幕戦で並び、地元アトランタで記録を破った。その瞬間、すべてが祝福に変わった。
通算成績はすごいが、シーズンの数字は驚くほどではない。本塁打の最多は45本で平均33本。目立ったのは背番号と同じ44本の本塁打を4度記録し、うち3回がタイトル獲得というくらいだった。白人の大投手ウォーレン・スパーン、貴公子と呼ばれた三塁手のエディ・マシューズの陰に隠れた地味な存在で、それが長くプレーできた理由でもあった。
74年11月、アーロンが来日し、後楽園球場で王とホームラン競争をした。10-9の1本差で勝ったのだが、戦前に来日したルースが日本にプロ野球を誕生させるきっかけを作ったとすれば、アーロンは日本球界に大リーグを身近にし、さらに発展させた野球人といえる。王が提案した世界少年野球にも最大の協力者となっている。ぜひ日本の野球殿堂に入れてほしいと願う。(菅谷 齊=共同通信)