「100年の道のり」(39)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎“2・26事件“の時代に次々と球団創立
 巨人に次いで球団を立ち上げたのは阪神タイガースである。1935年(昭和10年)の年の瀬、12月10日に「大阪野球倶楽部」として創立した。
 年が明けて36年になると、続々と新球団が名乗りを上げた。
 ・1月15日 名古屋協会「名古屋軍」
 ・1月17日 東京野球協会「セネタース」
 ・1月23日 大阪阪急野球協会「阪急」
 ・2月15日 東京協会「大東京軍」
 ・2月28日 名古屋野球倶楽部「名古屋金鯱軍」
 計7球団で日本職業野球連盟が組織された。
 平和な時代と思われがちだが、世相はそれとは裏腹に危なっかしい出来事が相次いでいた。
 その代表的な例が2月26日未明に起きた日本史に残る“2・26事件”だった。陸軍の反乱である。大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤実(まこと)らが即死。侍従長・鈴木貫太郎(のち首相)は重傷を負った。総理大臣の岡田啓介は奇跡的に助かった。
 それから2日後に7球団目の名古屋金鯱軍が産声を上げている。事件は東京で名古屋からは離れているとはいえ、のんびりしたものだった。
 日本はそして日中戦争、太平洋戦争に突入するという時代だった。
 さて、阪神である。
 プロ野球チーム結成は決してスムーズではなかった。政治家、経済界などが絡んで、創立話は密かに進められた。阪神の名前は出さずに、地名の大阪を前面に押し出して「大阪タイガース」としていた。
 信じられないが、「阪神タイガース」と社名を変更したのは、およそ25年後の61年(昭和36年)のことである。
 創立したとき、会長に実業家の松方正雄が就いた。明治維新の元勲・松方正義の息子である。数多くの大企業の要職を捨てて新興の野球に力を注いだ。プロ野球関係者がこういう事実をどこまで知っているだろうか。
 阪神がもめたのは監督人事だった。それぞれの役員実力者が腹案を持ち、野球経験者は自らのルートから推薦してきた。強硬に関西の大学出身者の名前が挙がったのは当然のことだった。
 ところが阪神電鉄の意向は違っていた。東京六大学リーグ出身者を望んだ。東西決戦の様相となり、暗礁に乗り上げた。
 知恵者がいた。
 「甲子園の中等野球大会で優勝した松山商の監督がいい。彼は優秀な指導者と評判がいい」
 森茂雄のことである。森は松山商-早大の経歴で、後年は早大監督や大洋ホーエルズの球団代表をこなした。森はまた、阪神が獲得に全力を挙げていた立大のスラッガー、景浦将の松山商の先輩にあたり、このことも監督招へいの大きな理由だった。阪神の初代監督は森に決まり、景浦も入団した。(続)