◎20勝は夢の夢、昭和は遠くなりにけり
次のデータはセ・パ2リーグになってからの10年ごとの20勝投手の人数である。
・1950(昭和25年)-59 セ56 パ37
・1960(昭和35年)-69 セ41 パ44
・1970(昭和45年)-79 セ16 パ21
・1980(昭和55年)-89 セ4 パ4
・1990(平成 2年)-99 セ2 パ0
・2000(平成12年)-09 セ1 パ2
・2010(平成22年)-19(令和1年) セ0 パ1
(2020=令和 2年はコロナ禍で試合数が少ないので参考)
プロ野球最後の20勝は、2013年の楽天で24勝無敗だった田中将大である。セの最後は2003年の阪神・井川慶(20勝)。
1980年代に入ると、激減しているのが分かる。試合の戦い方が新しい時代に入ったことが大きな理由と見ていい。巨人の9連覇が終わった翌1974年から「最多セーブ」のタイトルが設定され、いわゆる“分業制”をどのチームも取り入れ、定着した。
大リーグではとっくにリリーフを重用していた。1970年代のヤンキースはスパーキー・ライルというクローザーが有名で、サイ・ヤング賞を獲得。そのあとローリー・フィンガースらが優勝に貢献している。
日本では江夏豊が先発から転向し、クローザーで成功したのが大きかった。
それまでの控え投手に陽が当たるようになり、年俸上昇に跳ね返った。阪神時代に先発の剛球NO1 だった江夏を転身させた、南海のプレーイングマネジャー野村克也の判断が球界を改革したといえる。
その代償が投打の名勝負が少なくなったことである。試合の終盤に“エースvs4番打者”が“リリーフvs4番打者”になった。
かつての大打者の一人は「確かにさみしい。以前は個人勝負に焦点が当たったが、今はチームの勝利優先だから投手をありったけつぎ込む。そのため先発投手の勝ち星が伸びなくなった。また先発投手が重要な試合で救援するケースがなくなったことも原因の一つ」と解説する。
現在のシーズン最多投球イニングは200がやっと。その昔、1959年パ稲尾和久(西鉄)の402.1、1961年セ権藤博(中日)の429.1は、異常な数字として球史に残る。300イニングを投げたのは、1978年の小柄なパ東尾修(クラウン)の303.1が最後。
シーズン登板のべ人数を見ると、1990-99年の平均はセ2507人、パ2296人。それが2000-09年になるとセ3176人、パ3236人。10-19年はセ3409人、パ3336人と増えている。現在は1チーム30人前後の投手が入れ代わり立ち代わり登板しており、そのため勝利が分散、20勝投手が出にくい。
オールドファンは昭和時代の40勝や30勝を挙げたスーパースター投手を知っているから、今の終盤の盛り上がりの質に物足りなさを感じているかもしれない。平成、令和への移り変わりは野球界の姿をも変えた。1週間に1度の登板で億の年俸を得る時代に。(菅谷 齊=共同通信)