「菊とペン」-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎本当の沖縄出身プロ野球選手は?
東京五輪は日本人選手のメダルラッシュで沸いている。金メダルは過去最多記録した。こうなると誰が何色のメダルを獲ったか、すぐには浮かばない。だが、金メダル第1号だけは別である。柔道男子60キロ級の高藤直寿の名前はすぐに出てくる。
 なんにつけ「第1号」は長く人々の記憶に刻まれる。その第1号に関して思い出したことがある。
 沖縄出身初のプロ野球選手とくれば、広島、阪神で投手として活躍した安仁屋宗八さんということが“定説”となっている。
 沖縄の高校が初めて夏の甲子園大会に出場したのは1962年の第44回大会の沖縄高校(現沖縄尚学)だ。安仁屋さんはエースとしてチームを引っ張り、7月29日の南九州大会で宮崎県の大淀高を破り、の甲子園切符を手にした。1回戦で広島の広陵高に敗れたものの、当時は“沖縄フィーバー”を巻き起こしている。
 高校卒業後は琉球煙草に入社。63年に大分県での都市対抗野球九州予選に出場して好投した。優勝した大分鉄道管理局の監督に高く評価され、都市対抗の補強選手に抜擢された。チームは本生命と対戦し、安仁屋さんはまたもや好投する。この時、すでに「沖縄からの都市対抗出場選手第1号」として話題になっていた。
沖縄に帰ると争奪戦が待っていた。西鉄(現西武)、大毎(現ロッテ)、中日、そして広島が参戦。安仁屋さんが選んだのは最も熱心だった広島だった。
米国占領下の沖縄からのプロ入りということで話題が先行、やはり新聞をはじめマスコミは「沖縄からのプロ第1号」と報じた。
 再びスポットライトを浴びたのは64年2月、鹿児島県・鴨池球場での国鉄とのオープン戦。先発に起用された安仁屋さんは勝負強さを発揮する。破壊力抜群の国鉄打線を5回無失点、打者18人を被安打2、四死球1、奪三振4の結果を残す。強打の豊田泰光からはシュートで三振を奪っている。
 ネット裏の記者席がざわつく。原稿は「ルーキの安仁屋」で決まりだ。試合後の取材は「第1号」が前提となる。キャンプイン後も話題が先行していた。
 ちなみにデーゲームだったが、試合開始30分前に桜島が噴火していた。黒煙が上がっている中でのゲームだった。いまでは到底考えられないが…。
 ちょっと前置きが長くなった。
実際の沖縄からのプロ第1号は金城政夫(きんじょう・まさお)投手である。1951、52年と東急(現日本ハム)に在籍して2年間の通算成績は0勝1敗。NPBの公式記録に載っている。金城投手は沖縄・国頭郡本部町出身で台湾の高雄商で剛速球投手として鳴らし沖縄球界でも活躍。高雄商の先輩・大下弘を頼っての東急入団だった。
安仁屋さんは第2号だったのである。
 その事実を安仁屋さんは知ってはいたが、本人の預かり知らぬところで話題が話題を呼んで、いつの間にか事実となっていった。本人がいちいち反論するのもおかしな話だ。19歳の青年は「沖縄の第1号なのだから頑張ろう」と自分に言い聞かせて発奮材料とした。
プロ18年で119勝124敗22セーブ、阪神時代の75年には防御率1・91で最優秀防御率とカムバック賞のタイトルを獲得している。広島カープ愛は深く、76歳となった現在も広島への厳しく温かい評論活動を行っている。(了)