「100年の道のり」(65)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎東西対抗、プロ野球復活のノロシ
 太平洋戦争の影響によるプロ野球の犠牲は1シーズンだけだった。1945年8月15日、玉音放送によって終戦。それから3か月後、プロ野球は再開への準備が本格化した。復活のノロシが東西対抗だった。
 戦前から連盟の幹部だった野球人が集まり「再開だ」との意思を固めた。11月23日、神宮球場で東軍VS西軍が行われた。
 メンバーは次の通り。
-東 軍-           -西 軍-
監督・横沢三郎(セネタース) 監督・藤本定義(朝日)
⑧古川清蔵(名古屋)     ⑧呉征昌(阪神)
⑥金山次郎(名古屋)     ⑥上田藤夫(阪急)
④千葉 茂(巨人)      ④藤村富美男(阪神)
⑦加藤正二(名古屋)     ⑤鶴岡一人(近畿)
⑨大下 弘(セネタース)   ③野口二郎(阪急)
②楠 安夫(巨人)      ②土井垣武(阪神)
③飯島滋弥(セネタース)   ⑨岡村俊昭(近畿)
⑤三好 主(巨人)      ⑦下村邦男(阪急)
①藤本英雄(巨人)      ①本堂保次(阪神)
1白木義一郎(セネタース)  1笠松実(阪急)
               1別所昭(近畿)
               1丸尾千年次(阪急)
 試合は東軍が13-9で西軍に打ち勝った。無名の大下(明大)が強打を放ち、一躍スター選手に名乗りをあげた。
 観衆5878人。入場料は6円だったが、税金は4円で実入りは2円だったそうである。
 当時、神宮球場は米軍に接収されており、米国大統領の名前が付き「ルーズベルト・スタジアム」とも呼ばれていた。
 実は球場を22-23日の2日間を借りていたのだが、22日は雨天中止となり第1戦は1日遅れとなった。
 驚くのは用具がそろっていたことである。西宮球場にボール、バット、グラブなどが保管されており、連盟の関西事務所から東京に運んだ。知り合いから道具を買い集めた選手、上京するのに汽車の闇切符を手に入れて参加した選手など、野球再開の報にみんな希望を持って神宮に駆け付けた。
 第2戦は桐生、その後、関西に移動して試合を行った。ファンは歓迎してスタンドを埋めた。
 年が明けると、リーグ戦が始まるのである。(続)