江本孟紀インタビュー(聞き手・菅谷 齊=共同通信)

江本孟紀さんの旭日中綬章(2017年秋の叙勲)授与は大きなニュースとなった。国政の実績を証明するものなのだが、プロ野球界にとっても素晴らしい勲章だった。様々な分野で活躍する好漢に聞いた。

▽人生を振り返るきっかけとなった叙勲

波乱万丈の人生を振り返る
旭日中綬章の江本孟紀さん
(2月27日、東京・浅草で)

-叙勲のいきさつを・・・。
「内閣府から連絡がありました。自宅にです。江本個人の受章ですからね。それで妻と首相官邸に伺い、菅義偉官房長官から授与されたということです」
-参議院議員時代の功績ですね。具体的に主な実績は・・・。
「スポーツ振興クジ(TOTO)の法案を通したことですね。実現するのに5年かかりましたから。今、売り上げは1千億円でしょ。スポーツ選手の支援という目標がありましたから、これは自負している出来事です」
-貴兄の人生は紆余曲折、波瀾万丈。野球選手にしては珍しい。この受賞で生き様に感慨深いものがあったのではないか?
「いろいろありましたからね。70歳という年齢もあるけれど、やはり人生を振り返るきっかけになったことは事実でした。昨年病気をしたことも含めてですね。国から認められたというのは確かに感慨深いものです」

▽忘れられない17歳への仕打ち

-高知商3年生(1965年)のとき、甲子園の選抜大会に出場が決まっていたのに出場取り消しに追い込まれたことがありましたね。大人の権力に対する反発が生まれたのではないか。
「野球部員2人の事件でした。それで部員80名ほどの夢が砕かれました。ほとんどの部員が知らないのに、ですよ。大人が作った規則で、ですね。対外試合禁止の処分がついていたので、夏の大会(選手権)の予選もダメ。野球部は解散状態です。世間の目も厳しくて街中に行くこともできなかった。17、8歳という多感な少年にとっては天国から地獄です。権力に対する考えが芽生えたことは事実ですよ。以来、私は涙を流したことがないんです。冷めていたんですね。そのくらいのむごい高校時代の仕打ちだったと思っています」
-そのときのチームは強かったそうですね。
「力はありましたね。優勝候補ですよ。3番の浜村健史(たかし)は西鉄(現西武)のドラフト1位で、エースで4番の私は同じチームの4位指名でした。出場停止処分の学校からですよ、指名が。自信満々のチームでした。それだけに、ね・・・」
-法政大学4年生のときには合宿を出された・・・。
「監督の説教に異見を言ったんですよ。言わなくてもよかったんだろうけど、我慢できなくてね。高校、大学と最後の年は運がなかった(笑)」
-社会人時代(熊谷組)も運がなかったと聞いている。
「都市対抗の予選が始まる1週間ほど前に盲腸で入院したんですよ。チームは東京代表で都市対抗に出ました。大会には間に合ってベンチ入りし、負け試合の最後に1イニングを投げました。腹の痛みを我慢しながら投げましたよ(笑)」

▽巨人V9最後の敗戦を印した日本シリーズ

-ドラフト外で東映(現日本ハム)入り。アマ時代にあれだけ運がなかったら普通の野球人だったら野球を諦めていたと思う。それなのに・・・。
「・・・でしょうね。私はあきらめが早い性格でもあるんですが、本筋だけはやり遂げたいという思いがあった。それが野球だったということですね。具体的にはプロ野球選手になって長嶋茂雄さんの時代にプレーしてみたい、長嶋さん、王貞治さん相手に投げてみたいという夢があった」
-1年後に南海(現ソフトバンク)に移籍・・・。
「東映入団が71年2月16日、キャンプ中ですよ。それでも開幕からベンチ入りしました。期待の新人投手ですよ(笑)。それがトレード」
-夏のジュニアオールスター戦(ナゴヤ)で好投しましたよね。
「出場が決まっていた投手が病気になって出られなくなった。それで代わりに出場することになったんですよ。3イニングで5三振。敢闘賞をもらいました。ヤクルトの若松勉さん、中日の谷沢健一さんら後の名球会メンバーもいた試合でしたね」
-南海の野村克也プレーイングマネジャーにその好投を見初められてトレードされた、と言われている。そのへんのいきさつは・・・。
「それはちょっと違う。野村さんがその試合を見てる訳がない。実はある捕手を出して投手を取りたいという野村さんの考えがあったんですね。それで東映に話があり、ドラフト外獲得の私が交換要員になったわけです。一軍の南海戦で投げていたから少しは参考になっていたかも知れませんが・・・。トレードが決まったとき、東映の張本勲さんや投手コーチの土橋正幸さんたちは、ローテーション投手間違いなしの投手をなんで出すんだ、と怒っていたことを後に聞きました」
-移籍1年目(73年)に16勝挙げ、南海を優勝に導いた・・・。
「オープン戦の最初の試合で打たれた。そうしたら、江本はたいしたことがない、という野村さんのコメントを新聞で読んだんです。それでカチンときた。以後、きっちりと結果を残した。シーズンに入って阪急(現オリックス)戦で山田久志さんと延長を投げ合い、負けたけれども、帰りのバスの中で野村さんが、打者たちに、江本に借りをつくった、次は借りを返せ、と言ったんです。それを聞いて発憤しましたね」
-日本シリーズの相手は巨人。V9の年でしたね。
「そうです。第1戦に先発して完投勝ちしました。4-3の接戦でした。シリーズはこの後、南海は4連敗したんですが、私の勝利は巨人V9最後の敗戦でもあるんです。思い出の試合の一つですよ」

▽政治家に転身は不思議な宿命

-76年に阪神に移った。エースのトレードですよ。どんな事情が・・・。
「阪神の吉田義男さんから野村さんに、江夏豊さんを取ってほしい、という話があったんですね。それに野村さんが応えた。選ばれたのが私。1対1かと思ったら私たちは4人、向こうから2人。変な話でした(笑)」
-その阪神を「ベンチがアホやから野球できへん」発言がきっかけで退団する。真相は・・・。
「ピンチでベンチを見たら監督の姿が見えない。おかしいですよね(笑)。そのとき、アホ発言、と報道された。そんな内容を言ったことは事実です。アホ発言ですが、先日亡くなった星野仙一さんなんか何千回もアホと怒鳴っているのに、おとがめなし。私が言ったら辞めろ、ですよ(笑)」
-シーズン中に退団した翌年、出版(プロ野球を10倍楽しく見る方法)でフィーバーした。以来、野球本が売れるきっかけとなった・・・。
「阪神を退団したあと、出版の話は数多くあったんです。ただ阪神のことをたたく、というようなのばかりなので断った。私は、野球の面白さ、楽しさをファンに伝えたいという思いがあったから、10倍となったんです」
-それから10年後に国政に携わった。そのへんの話を・・・。
「アントニオ猪木さん(スポーツ平和党)から出馬要請があったんです。なんで江本が、と皆さんは思っていたようですが、実は、私は若いころから政治に関心があった。ですから新聞は一般紙をよく読んでいました。大人になってからは経済紙も、です。スポーツ紙も含め3、4紙ですね。そんな下地がありましたから、政治家になる宿命にあったのかな、と思いましたね。出馬に違和感はなかった。それまで選挙応援も依頼されて何度も行っていました。猪木さんの話は素直に受けましたね」

▽好打者に強く、ノーコン記録多し

-日本だけでなく国際野球界にも尽力している・・・。
「広く支援したいと思っています。タイのナショナルチームにも関係しましたし、米国の独立リーグにも携わった。若い選手にチャンスを与えたかったんです。日本の独立リーグのチームにも協力しています」
-国内では元プロ野球選手にも手を伸ばした。OBクラブですね。
「議員時代にプロ野球OBクラブを社団法人にしました。法人を少なくしようという時でしたから、これは大変でしたね」
-最後にプロ野球選手江本の回顧談を。8年連続2ケタ勝利に9年連続規定投球回数をマークし、防御率ベストテンに4度(72年2位)は立派。
「よく言ってくれました(笑)。シーズン200イニングは6年連続です。私は先発したら完投が信条でしたから」
-連続試合安打記録を続ける打者を2人もストップさせている・・・。
「張本さんの日本記録を抜いた長池徳二さん(阪急、32試合連続)と、それを更新した高橋慶彦さん(広島、33試合)です。33試合目と34試合目を止めたんです。そういう打者に対すると、やってやろう、となるんですね」
-その一方でシーズンの最多与四球、最多死球、最多暴投、最多ボークなどの記録がたくさんある・・・。
「あはは、コントロールが悪かったですからね。でも(死球で)乱闘になったことはない(笑)。通算ボーク24は今でも最多記録でしょ」(了)

「後記」

相変わらず多忙である。インタビューは告別式出席と出版取材の合間の時間だった。簡潔、明瞭、無駄のない話しぶりは健在で、要点をしっかりとらえ、面白さを交えているから、リズムよく作業が進んだ。終わって、「土佐っぽ、なんだね」と言うと、笑いながら「そう、そうなんです」。そして「意固地。良くない土佐っぽ」と付け加えたが、これは正義感の言い換えで、照れ隠しと見た。アマのころは上から押さえつけられたが、自分の力で生きるプロでは、ここ一番の強さを発揮した。力量豊かな打者には敢然と向かって行く男っ気を持っており、世界のホームラン打者、王には1本しか本塁打を打たれていない。「食欲が戻ってきました。顔も、ね」と病気を克服した自信をのぞかせた。一休みからまた活躍のマウンドに登った。(菅谷)